星溪園6 [建造物]
星溪園の現在の各建物入口に掲げられている、建物名が記された木札を紹介します。
揮毫したのは、野口白汀(1931-2007)です。
野口白汀は、昭和6年熊谷生まれの書家で、本名林造。昭和28年に現代書の大家松井如流(1900-1988)に師事しました。昭和45年毎日書道展準大賞、昭和49年・57年日展特選受賞。その後日展審査員、評議員となり、日本書道界をリードする存在となりました。また、大東文化大学では40年余り教鞭をとり、定年後は名誉教授となりました。平成19年に、病により76歳の生涯を閉じました。
この他、野口白汀揮毫の石碑「旧中山道跡」が、星溪園北側の中山道脇に、平成3年8月26日に設置されています。
星溪寮
松風庵
積翠閣
揮毫したのは、野口白汀(1931-2007)です。
野口白汀は、昭和6年熊谷生まれの書家で、本名林造。昭和28年に現代書の大家松井如流(1900-1988)に師事しました。昭和45年毎日書道展準大賞、昭和49年・57年日展特選受賞。その後日展審査員、評議員となり、日本書道界をリードする存在となりました。また、大東文化大学では40年余り教鞭をとり、定年後は名誉教授となりました。平成19年に、病により76歳の生涯を閉じました。
この他、野口白汀揮毫の石碑「旧中山道跡」が、星溪園北側の中山道脇に、平成3年8月26日に設置されています。
星溪寮
松風庵
積翠閣
星溪園4 [建造物]
星溪園3 [建造物]
星溪園2 [建造物]
星溪園1 [建造物]
熊谷市指定記念物名勝「星溪園」は、竹井澹如が元和年間からある池を中心に名石、石造物を配置して造った名園です。昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定しました。 平成2年から4年にかけて園内の整備が行われ、老朽化の見られた建物は、数奇屋感覚を取り入れた上で復元されました。
復元以前の写真がありましたので紹介します。
今回は、星溪寮です。星溪寮は、木造瓦葺切妻造の建物です。床面積103.74㎡で、慶応年間から明治の初め頃にかけて、他所から移築された最も古い中心的な建物です。玄関入口には湛如翁書「晴好雨奇別乾坤」の木彫額、部屋には藤森大雅書「清慎勤」、古賀精里書「閑情小趣」の扁額が掲げられていました。主室は、8帖の和室、次の間の4帖の和室と3帖の和室からなり、建物の南側に接続して茶室が設置されていました。写真では、亜鉛引鉄板葺きの寄棟建物が茶室と思われます。
〈参考〉
『熊谷市指定文化財 星溪園建物概要報告書』昭和63年 (社)埼玉建築士会大里支部 星溪園建物調査委員会
現在の星溪寮
復元以前の写真がありましたので紹介します。
今回は、星溪寮です。星溪寮は、木造瓦葺切妻造の建物です。床面積103.74㎡で、慶応年間から明治の初め頃にかけて、他所から移築された最も古い中心的な建物です。玄関入口には湛如翁書「晴好雨奇別乾坤」の木彫額、部屋には藤森大雅書「清慎勤」、古賀精里書「閑情小趣」の扁額が掲げられていました。主室は、8帖の和室、次の間の4帖の和室と3帖の和室からなり、建物の南側に接続して茶室が設置されていました。写真では、亜鉛引鉄板葺きの寄棟建物が茶室と思われます。
〈参考〉
『熊谷市指定文化財 星溪園建物概要報告書』昭和63年 (社)埼玉建築士会大里支部 星溪園建物調査委員会
現在の星溪寮
三ヶ尻八幡神社本殿6 [建造物]
三ヶ尻八幡神社本殿の写真紹介6回目。今回は、本殿扁額(へんがく)です。
慶應4年(1868)に、太々神楽講中により奉納されたもので。「太々神楽講中」「玉磨殿」「■斎正翁書」、下部には13名の奉納者名が記されています。
額側縁には、昇り龍・下り龍の彫刻が施されています。玉磨殿の意味は不明ですが、『新編熊谷風土記稿』1978日下部朝一郎には、八幡神社は「古くは玉磨八幡宮と呼ばれていた」と記されており、八幡神社と何らかの関係がある言葉と推測されます。
*扁額(へんがく):建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額。
*太々神楽(だいだいかぐら):神社の祭礼の際、神様に捧げる歌や舞。五穀豊穣、厄難消除、幸運招福などの願いを込めた舞を行う。
慶應4年(1868)に、太々神楽講中により奉納されたもので。「太々神楽講中」「玉磨殿」「■斎正翁書」、下部には13名の奉納者名が記されています。
額側縁には、昇り龍・下り龍の彫刻が施されています。玉磨殿の意味は不明ですが、『新編熊谷風土記稿』1978日下部朝一郎には、八幡神社は「古くは玉磨八幡宮と呼ばれていた」と記されており、八幡神社と何らかの関係がある言葉と推測されます。
*扁額(へんがく):建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額。
*太々神楽(だいだいかぐら):神社の祭礼の際、神様に捧げる歌や舞。五穀豊穣、厄難消除、幸運招福などの願いを込めた舞を行う。