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きかは便郵146 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介146回目。今回は「熊谷直実」です。
ひげを蓄え、正面を見つめる恰幅の良い僧が描かれています。
建久4年(1193)に法然上人の門をたたき、出家して法力房蓮生と名乗った後の姿を描いたものです。
写真下には「(日本百傑之内) 熊谷直實 KUMAGAI.NAOZANE」と印字されています。
この絵葉書は、「つるや画房」が発行したもので、日本の歴史上の人物百人を選んでつくられたシリーズ絵葉書の一枚です。
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きかは便郵145 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介145回目。今回は「熊盛座」です。
この写真は、大正14年5月13日の熊谷大火で焼失する前(大正7年~14年)に撮影されたものです。
熊盛座は、佐谷田の棚沢房吉が、熊谷宿泉町の水田地帯を埋め立てて劇場を設立し、その後、明治27年(1894)に枡席で定員1,300名を収容する写真の劇場を建設しました。間口十二間奥行二十間で、東京歌舞伎座を模した建物です。細い路地に建つ、木造2階建瓦葺きの建物は寺社建築を模しており、入り口正面の2階屋根には唐破風を取り付け、四隅の軒先には風鐸が下げられています。2階の窓の外には、擬宝珠高欄(柱頭部に擬宝珠の付けられた廻縁)が施された浜縁が装飾的に付けられています。
建物前に設置された幟旗には「熊盛座」、「新派連鎖志村演劇精養軒」の文字が見えます。
「新派」とは、明治21年(1888)に始まった日本の演劇の一派で、明治時代に始まった「壮士芝居(明治21年12月3日大阪新町座:角藤定憲旗揚げ)」、「書生芝居(明治24年2月大阪堺卯の日座:川上音二郎旗揚げ)」などをもとに歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達し、「旧派」の歌舞伎に対して「新派」と呼ばれました。
「連鎖」とは、一つの作品を演劇と活動写真で交互に上演・上映したもので、明治40年(1907)代に流行しました。主にアクション場面を上映しながら、陰で台詞を言い、その続きを活動写真と同じ俳優が舞台で演じる形式でした。映画撮影が未熟だった頃に多く作られ、目新しさと俳優の熱演で青年層を中心に人気を集めました。
「精養軒」は、興行主と思われますが、詳細は不明です。
「新派」の「志村演劇」が「連鎖」劇を熊盛座で公演している、映画が普及し始めた頃の、当時の熊谷の様子を伝える貴重な写真です。
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きかは便郵144 [きかは便郵]

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今回紹介する絵葉書は、森田恒友(1881~1933)の年賀状です。
昭和4年に知人に宛てたもので、上部にはひよこの絵が描かれています。
住所は、大正11年8月に新居を建てて転居した、東京市外中野となっています。

森田恒友は、大里郡玉井村(現・熊谷市)に生まれました。15歳で埼玉県第二尋常中学校(現・熊谷高校)に入学しましたが、明治31年、17歳で画家を志して上京、小山正太郎の不同社に学びました。明治35年、東京美術学校(現・東京藝大)西洋画科選科に入学、青木繁を中心に熊谷守一、正宗得三郎らとともに“青木グループ”を結成、明治39年には東京美術学校西洋画科を首席卒業しました。
明治40年には石井柏亭、山本鼎と美術雑誌『方寸』を創刊、第一回文展(現・日展)に「湖畔」が入選するなど、以後、中央画壇で活躍を始めます。
大正3年に渡欧、ロンドン、南仏、イタリア、スペインを旅行し、ポール・セザンヌの影響を大きく受け、帰国後の大正5年には日本美術院洋画部同人となります。大正15年には帝国美術学校(現・武蔵野美術大学、多摩美術大学)の洋画科主任教授となるなど一層の活躍を期待されましたが、昭和8年に52歳で亡くなりました。
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星溪園5・きかは郵便143 [きかは便郵]

熊谷市指定記念物名勝「星溪園」の紹介。今回は、此君亭(しくんてい)です。
此君亭は、かつて積翠閣東側の玉の池の北東部に面して建てられていた建物で、昭和20年の熊谷空襲により焼失しています。木造瓦葺平屋高床式の建物で、床面積は75.9㎡余と推測されています。
当初東側の6帖のみの建物で、ここに明治17年昭憲皇太后が立ち寄り休憩しています。その後西側に8帖の和室2室を増築し、大正10年に、秩父宮が宿泊しています。
下の写真は、大正期に発行された絵葉書で、玉の池に面した建物が写っており、此君亭と思われます。キャプションには「熊谷名勝 竹井邸内石上寺池ヨリ暮鑾亭ヲ臨ム」と記されています。「暮鑾亭」(ぼらんてい)と記されていますが、池に面した建物は「此君亭」しかないことから、別称かもしれません。
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きかは便郵142 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介142回目。今回は「熊谷附近ノ機関銃射撃」です。
この写真は、大正7年(1918)から昭和初年の間に撮影された、「熊谷附近ノ機関銃射撃」の写真です。
荒川の河川敷と思われる場所で、藪の陰に隠れ、軍人が4人一組で、三脚に据えられた機関銃を構える様子が写されています。
手前の男性はリュックを背負い、腰には、水筒と三十年式銃剣が下げられています。この三十年式銃剣は、明治30年(1897)に陸軍で採用された銃剣で、第二次世界大戦終戦まで日本軍の主力銃剣として使用されていたものです。特徴は、日本刀を模した片刃の刀身で、左右に血抜き用の溝が彫られていました。
機関銃は、左側に保弾板(フィードストリップ)が取り付けられている三八式機関銃です。これは、明治40年(1907)に、陸軍砲兵南部麒次郎少佐(1869-1949)が設計したもので、三脚上に搭載して使用する空冷式機関銃です。口径6.5mm、全長1,448mm、銃本体重量28kg、三脚重量21.672kg、総重量55.5kg、有効射程距離2,000mで、装弾に保弾板を使用し、30発を連射することができました。
三脚は、前方に2脚、後方に1脚が延び、この後方の脚上には銃手用のサドルが取り付けられていました。写真をよく見ると、右から二番目の男性が銃手と思われ、膝射姿勢をとっており、足の間には後方に延びる1脚が写っています。
ちなみに、市内荒川右岸の平塚新田には、昭和16年頃に熊谷地域の青年学校の実弾射撃場がつくられ、当時の熊谷市役所内に実弾射撃場事務所が置かれ、使用許可を出していました。現在でも、江南台地崖線下に、コンクリート製の監的壕(射撃の着弾点や命中率を確認するための施設)の一部が残っています。
熊谷付近の荒川河川敷で、陸軍の機関銃射撃訓練が行われていたことを記録した貴重な写真です。
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きかは便郵141 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介141回目。今回は「荒川大橋」です。
この写真は、大正6年(1917)から大正10年(1921)の間に撮影された、「荒川大橋」です。
橋は、中央部がコンクリート製橋脚に二連トラス橋となり、両側は木桁橋となっています。写真左手には、河原に座り川面を見つめる男性が写っています。
トラス橋とは、橋の桁部分に、細長い部材を両端で三角形に繋いだ構造で、それを繰り返して桁を構成する橋です。
荒川大橋は、明治42年(1909)に、それまでの「村岡の渡し」に代わって、熊谷と対岸の村岡を結ぶ荒川に、橋長506m、幅員4.2mの木桁橋として架けられました。橋脚には、すべて秩父産の杉丸太が使用され、杭木4本建55組で、1径間(橋脚間の距離)が5間ありました。
大正3年(1914)8月13日には、洪水により橋中央の一部(70間:126m)が流失し、大正6年(1917)流失した部分を二連トラス形式で修復しました。
大正10年(1921)には、残存していた木造部が流失し、大正14年(1925)に流失した部分を九連トラス形式で修復し、当初の木桁橋は完全に姿を変えました。
これにより、全橋とも鉄鋼製となり、全長509mの荒川大橋は、当時県下一と称されました。
昭和29年(1954)には、荒川が改修され、川幅が広くなったことに伴い、橋をコンクリートで延長しています。昭和55年(1980)に、新荒川大橋が竣工し、昭和56年(1981)には、この九連トラス橋は撤去されましたが、橋の一部は、日本の近代橋梁の先駆けとなる歴史的構造物として、村岡側に移築・保存されています。
写真は、中央部のみがトラス橋となっており、大正6年(1917)から大正10年(1921)の5年間だけ存在した、木桁橋から鋼鉄橋への過渡期の様子を写した貴重な写真です。
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きかは便郵140 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介140回目。今回は「熊谷警察署」です。
この写真は、大正15年から昭和8年の間に撮影された、現在の本町2丁目の中山道に南面して建てられていた「熊谷警察署」の建物です。
石造2階建ての建物で、中央にアーチ天井の入り口があり、塔屋が設けられています。入り口上面の壁面には、「熊谷警察署」の文字と共に警察の紋章である「旭日章」が取り付けられています。建物前には、鉄骨で望楼(火の見櫓)が建てられています。
明治4年の廃藩置県と同時に、熊谷県では聴訴課内に「取締官」および「捕亡方」が置かれ、管内の取り締まりを行いました。明治7年には熊谷333番地にその出張所が設けられ、これが現在の熊谷警察署の始まりとなります。明治8年には「捕亡方(捕亡吏)」は廃されて「卒」となり、同年10月には「巡査」と改称されたことから、巡査屯所と称しました。
明治9年1月には、内務省達によって屯所が廃止され、8月には熊谷県から埼玉県管轄となり、10月に熊谷警部出張所となりました。明治10年2月には、熊谷警察署と改称され、明治12年12月には庁舎を築造し、移転しました。
この建物は、大正14年の熊谷大火によって焼失し、再建された建物が、この絵葉書の建物です。しかし、この建物も、昭和20年の熊谷空襲により焼失しています。
現在の石原地内の国道17号(中山道)と国道140号・407号の交差点に位置する熊谷警察署は、本町から移転後さらに平成8年に建て替えられた建物です。
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きかは便郵139 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介139回目。今回は「熊谷音頭」です。
この写真は、明治40年から大正7年の間に、中村写真館により撮影された、「熊谷音頭」の様子を写したものです。
お祭りの日にあたるのか、日章旗と旭日旗の張られた屋外に設けられた舞台に、熊谷音頭を披露する場面が写されています。舞台軒下には「・お・や・か・ま」と書かれた提灯が下げられており「どんおやがまく」と思われます。舞台上には女児2名が扇子を持って踊っており、後ろには、三味線、小鼓、大鼓を持ち演奏する女性6人と、扇子を持ち唄を歌う女性10人が写っています。
熊谷音頭は、平山盧江作歌、杵屋佐近作曲、藤間伊勢振付の民謡です。歌詞は、「赤城おろしを秩父でよけて 富士と浅間はさしむかひ おかひこぐるみか熊谷町は 桑の青葉の中にある 君に大橋わたれば下は 小石川原に月見草 土手のさくらをそのまま染めて 熊谷名物もみの色 水は荒川さくらは堤 武士の情けは熊谷寺 江戸からここまで熊谷堤 花の廊下の月あかり 上之めぐみで一所に 成田何の熊谷末とげる 竹町弥生の春のはりと 意気地で添うたなか 松の石原鎮守の森に 月のしづくかしめじ茸 通ふ心は箱田をこえて 恋の川上竜淵寺」
平山盧江(1882-1953)は、神戸生まれの文人で、本名は壮太郎。実父の死後に長崎の酒屋、平山家の養子になり、日露戦争中、満州に渡り、帰国後は「都新聞」などの花柳・演芸欄を担当し、大正15年長谷川伸らと第1次『大衆文芸』を創刊。都々逸、小唄の作詞も行い、この熊谷音頭も手がけています。
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きかは便郵138 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介138回目。今回は「織物品評会会期中の熊谷町光景」です。
この写真は、前回紹介した大正10年(1921)10月に、市内末広の埼玉県工業試験場と玉井の埼玉県原蚕種製造所の2会場で開催された、全国特産織物品評会会期中の熊谷町中山道の光景を写したものです。
雨上がりに撮影されたもので、傘を手に通りを歩く男性の後ろ姿が写っています。通りの両側には、電柱の間に四本ずつ、紅白の布が巻き付けられた角柱が立てられ、日章旗が掲げられています。左側の電柱には、「冨士森足袋店はこちら」「谷田時計楽器店」(明治43年創業:現・株式会社谷田楽器店)の看板が取り付けられています。
右側手前の商店は絵葉書や写真帳、文房具類を扱っていた小坂藤華堂で、「■■■■ 並ニ印刷エハカキ額縁各種文房具類」「山崎外科医院皮膚病花■病」「藤華堂」の看板が掲げられています。その奥の商店は自転車店と思われ、「二ヶ年間保証書付パ■■ン自転車」の看板が掲げられています。
これは、明治39年(1906)に、鉄砲鍛冶から自転車製造に変遷した日本最古の自転車メーカー宮田製作所(現・ミヤタサイクル株式会社)が、安価なアメリカ製自転車の流入に対抗して販売した、国産のパーソン号自転車の看板と思われます。
ちなみにこの自転車の保証書には「右ハ弊所ノ製品ニシテ其材料ノ精選サレタルハ勿論欧米最新式ノ完全ナル自動製作穖ニ依リ老練ナル技手ノ手ニ製出セラレタルモノナリ弊所ハ此自転車ノ破損ニ對シテハ本日ヨリ起算向フ貮ヶ年間絶對ノ責任ヲ以テ保証仕候也」と記載されていました。
先月号で紹介した緑門とともに、織物品評会開催中の来場者を歓迎する蚕都熊谷の、シティドレッシングの様子を伝える写真です。
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きかは便郵137 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介136回目。今回は「株式会社熊谷電気館」です。
この写真は、大正15年から昭和8年の間に撮影された、熊谷町大露路の星川沿いに所在した「熊谷電気館」の建物です。
「電気館」とは、家電販売店ではなく、映画館の名称として使用されていました。日本最初の映画館は、明治36年に、浅草六区に「浅草電気館」として設立され、その後これに倣って日本全国に多数の「電気館」ができました。
「熊谷電気館」は、明治30年に設立された劇団「梅盛座」が、時勢の推移により映画が上映されるようになると廃業し、大正8年に「電気館」と改め、映画専門館として営業を開始したものです。当初の建物は、大正14年5月13日に熊谷大火で焼失し、翌年に写真の建物に再建されました。
再建された建物は、大正ロマンを感じさせる3階建ての建物で、建物前には「熊谷電気館」ののぼり旗や、「特別上映鞍馬天狗大会」の立て看板が立てられています。建物入り口の上には、「熊谷電気館」の文字をウサギが持つ看板が設置されています。青海波紋が背景に描かれており、因幡の白ウサギをモチーフとしていると思われます。
建物前の砂利敷きの道路には、鞍馬天狗を見たいのか、「熊谷電気館」を見つめる子どもが写っています。
前回紹介した「熊谷座」とともに、芝居小屋から映画館へと推移した、当時の熊谷の様子を伝える貴重な写真です。
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