SSブログ
熊谷の名工 ブログトップ
前の10件 | -

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.7 天昌寺 [熊谷の名工]

5EA12631-45D9-45A6-8830-3CE5D7099AC7.jpeg
 塩沢の牧之(ぼくし)通りから北西に車で5分ほどのところにある天昌寺は、越後の文人・鈴木牧之が著した『北越雪譜』初編中之巻「寺のなだれ」の舞台にもなっている曹洞宗の古刹です。平安時代中期に、恵心僧都源信により創建され、寛元年間(1243~)には、北条時頼により、越後観音礼所に定められ、十二番霊場として益々観音信仰が広まったといわれています。延徳2年(1490)堂守が没し無住となり、堂宇存続のため雲洞庵から住職を請し復興しました。明暦3年(1657)堂宇が焼失し、現在の本堂は万治2年(1659)に再建されたものです。銅板葺き、入母屋造りで桁行は10間、入口の両脇には仁王像が構えます。
 本堂に入ると正面横並びに10枚の欄間彫刻がはめ込まれています。このうちの7枚を小林源太郎が手掛けました。左手から「子引き獅子」、「唐獅子牡丹」、「盧教仙人」、「大真王夫人と竜」、「祝鶏老翁」、「静玄夫人と麒麟」、「梅福仙人と鳳凰」。
C862A9D0-FF74-4F72-B8F6-293A47DD0B54.jpeg
「子引き獅子」
8A804595-44E9-4A06-96AB-09CB07FDCED8.jpeg
「唐獅子牡丹」
9B71CA49-D457-426A-8ABB-5E5AECECDF20.jpeg
「盧教仙人」
425D936F-BDD2-4D98-87A6-B76BFA43D7AD.jpeg
「大真王夫人と竜」
B099B5CA-08BE-460D-B8E2-5071053E06F4.jpeg
「祝鶏老翁」
A8EC54CF-6095-4947-B168-42D944658B8E.jpeg
「静玄夫人と麒麟」
8BD60E8B-0C02-40C1-B2C8-BF8659D6D560.jpeg
「梅福仙人と鳳凰」

 厚さ30㎝のケヤキ板に中国の古事に由来する狩野派の絵を浮き彫りにした作品です。素木の彫刻に所々、赤、黒、緑の彩色が施され、奥行きのある彫りは躍動感に溢れています。「子引き獅子」の手鞠や「祝鶏老翁」の鳥籠には、部材を籠状に彫り抜いて内部まで立体的に表現する「籠彫り」という彫刻技法が施されており、非常に精緻で、鳥籠に至っては籠のなかの鶏の様子まで再現されています。彫刻の裏面には、嘉永7年(1854)の墨書銘が残されており、源太郎54歳の作とされます。源太郎は、この後、榛名神社(群馬県高崎市)の双龍門の彫刻を完工し、再び越後に戻って雲蝶との共作を残しています。源太郎が手掛けた天昌寺本堂の7枚の欄間彫刻は、平成4年に塩沢町の文化財に指定され、現在は南魚沼市指定文化財となっています。
 平成16年に発生した新潟県中越地震で、この地域は震度5強を観測しています。天昌寺では、この地震により、一部の欄間彫刻が落下し、静玄夫人の首が折れる等の破損の被害を受けたといいます。彫刻はその後修復され、源太郎の功績は今日まで引き継がれています。



参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
・飯盛山天昌寺パンフレット

nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.6 青木酒造 [熊谷の名工]

 新潟県南魚沼市塩沢の牧之(ぼくし)通りは、旧塩沢町の中心市街地にあり、かつて三国街道沿いの宿場町として栄えた歴史ある通りです。江戸時代、雪国越後に暮らす人々の生活を記した「北越雪譜」の著者・鈴木牧之(ぼくし)生誕の地であり、その名にちなんで名付けられました。道路改良を機に、雪国の歴史と文化を活かすまちづくりをめざして、雪国特有の雁木の町並みの風情が再現されました。
 この牧之通りのなかほどに享保2年(1717)創業の老舗酒蔵、青木酒造があります。店舗の外には銘酒「鶴齢」の文字が入った看板が掲げられており、その縁を精緻な龍の彫刻が飾ります。この彫刻は、かつて青木家の店舗前に置かれていた小林源太郎作の立て看板の彫刻の一部を再利用したものです。台風で倒れ、破損してしまいましたが、解体して看板の部位だけは残し大切に保管されてきました。
B5F8EA4C-3A52-4D5A-A56A-58146DC4CB2B.jpeg
銘酒「鶴齢」の文字が入った看板装飾

 店内に入ると縦長の額に入った当時の立て看板の見取り図を目にすることができます。見取り図の右端には「けやき立てかん者んの圖(けやき立て看板の図)」と書かれ、看板の中央には『薄荷圓(はっかえん)』の文字があります。江戸時代、この地域では薄荷が多く自生しており、冬の気候を利用した蒸留技術で薄荷を精製し、商品名を『薄荷圓(はっかえん)』として販売していました。青木家もかつて薄荷を商っており、この立て看板は『薄荷圓』をPRするためのものでした。
A5E77DF8-BBFD-441D-B4FD-7DFA0A7D56BA.jpeg
立て看板見取り図

 店内には、立て看板の持ち送り部分の彫刻が当時と同じように裏表を合わせたかたちで展示されています。とても大きく重厚感のある彫刻に圧倒されます。またその他の細かな彫刻の一部も店内で大切に保管されていました。
ACD569D5-0FA0-4150-A13F-D16ACA988244.jpegA127394E-7AF1-4815-8A3D-19771D0A6179.jpeg
持ち送り彫刻
42563BE9-B469-41ED-934F-5F46F76D5355.jpegAD9FA126-AD1E-4230-B74E-47EA995E3B22.jpeg
その他の細かな彫刻

 青木酒造では、今でも薄荷油を販売しています。薄荷油は、虫除けや消臭、暑さ対策など様々な用途があるようです。最近では、マスクにつけて薫りを楽しむ人もいるそうです。店員のお姉さんが「よかったらつけてみてください。」と試供品を薦めてくださいました。手の甲に油を垂らしてのばすと、スッと抜けるようなさわやかな香りが心地よく鼻の奥に広がりました。


参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』


nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.5 龍谷寺 [熊谷の名工]

8A718367-5663-49A1-A722-492433B83632.jpeg
 龍谷寺は、新潟県南魚沼市大崎に所在する曹洞宗の寺院です。どっしりとした重厚感のある本堂は、宝暦10年(1760)に再建されたものです。現在も本堂の茅葺屋根はそのままに、鉄板で葺いている他、そのほとんどは建築当時のままで、豪雪地帯における代表的な禅宗様式を伝える貴重なお堂です。
3CF28EE9-5815-4D17-9913-E7702826FFAE.jpeg
 本堂の右手には、古代インドの寺院建築を彷彿とさせる観音堂が構え、堂内には戦後日本の復興を祈念して、ハワイの日系移民の浄財によって建立された十一面観音像がお奉りされています。本堂の左奥にある妙光堂には、釈迦如来や十六羅漢像など百二十余体の仏像が安置され、厳かな雰囲気が漂います。
 観音堂左手の渡り廊下を進み、本堂に入ると透かし彫りの欄間彫刻が奥まで続いています。手前から獏、麒麟、唐獅子牡丹が2面。さらに室内の欄間彫刻には2面にわたって得誠和尚の行履を伝える様子が表現されています。その欄間の裏面には、葡萄の木に朝顔の蔦が絡み合い、傍らで蝶が舞う落ち着いた品のある彫刻が彫られています。これらの彫刻は、雲蝶の手によるものです。堂内は撮影禁止のため、ここではその様子をご紹介することはできませんが、欄間の枠から飛び出す勢いのある彫刻や余白を上品に活かした構図から、雲蝶の彫刻技術と芸術性の高さを感じとることができます。
 また、本堂の奥2面の欄間には鳳凰と唐獅子牡丹の彫刻が施されており、これらは源太郎の最後の作と伝えられています。源太郎は、この彫刻を手掛けた後、文久元年(1861)初冬、上州玉村(現群馬県玉村町)において63歳で亡くなりました。雲蝶が手掛けた「葡萄と朝顔」の欄間彫刻には、壬戌(文久2年)晩春の雲蝶の署名が残されています。雲蝶は当時49歳。源太郎と過ごした在りし日に思いを馳せながら、雲蝶はこの彫刻の制作に挑んだのかもしれません。

参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
・八海山龍谷寺パンフレット
nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.4 西福寺 [熊谷の名工]

E424F029-F007-4F10-ADB1-696BAEB51685.jpeg
 石川雲蝶の作品群の中でも特に有名なのが、新潟県魚沼市に所在する西福寺開山堂の彫刻です。開山堂は、西福寺二十三世大龍和尚の発願により安政4年(1857)に建立されました。様式は鎌倉時代の禅宗仏殿構造、屋根は茅葺きの二重層で上層は入母屋造り、正面には唐破風向拝を有しています。向拝及び堂内の彫刻はすべて雲蝶によって手掛けられました。
 向拝正面の唐破風下には、鳳凰が舞い、烏天狗が守護し、虹梁の波の彫刻は躍動感に満ちています。左右の柱には、獅子と象の木鼻彫刻が施され、目にはギヤマン(ガラス)が使われています。
8FA74EA3-BB55-4AFB-9F6F-E0B93E7445A2.jpeg
向拝正面 烏天狗と波の彫刻
9FA8A495-154E-46D4-B99F-1CA18041F42A.jpeg
向拝 獅子と象の木鼻彫刻
 向拝の彫刻の素晴らしさもさることながら、堂内を一杯に埋め尽くす内部の彫刻群は息をのむ迫力で、観る者を圧倒します。雲蝶の作品は物語性が強く、開山堂内の彫刻は曹洞宗開祖の道元禅師の伝記がモチーフとなっています。三間四方の吊り天井に施された透かし彫りの大彫刻は、道元禅師が宋に修業した際、天童山に行脚の途中、盧山で猛虎に出会ったときの物語です。岩絵の具で、極彩色に彩られた彫刻は、当時のままの色彩で、観る者を魅了します。このほか周囲を囲む欄間彫刻や梁上の彫刻にも、道元禅師の物語が彫られ、雲蝶の作品が堂内にぎっしりと詰め込まれています。
EABD1625-E64B-403B-940E-BD248FC832DB.jpeg 
開山堂堂内※7月~9月に限り、撮影可能。
 また、雲蝶は木彫だけでなく、絵画や石彫などにも優れた才能を発揮しました。西福寺の本堂では、雲蝶が手掛けた襖絵や書院障子なども目にすることができます。雲蝶が手掛けたこれらの作品は、「開山堂の雲蝶彫物附雲蝶筆欄間二面襖絵十六面」として昭和48年(1973)に新潟県の文化財に指定されています。

4C52F904-3583-40DC-A6D0-80F0AAA8C626.jpeg
 雲蝶の作品で有名な西福寺ですが、実は小林源太郎もこの地に足跡を残しています。開山堂の隣に高くそびえる鐘楼。この鐘楼の彫刻を手掛けたのが源太郎です。開山堂より7年早い、嘉永3年(1850)に建立された鐘楼の四方には、それぞれ蟇股が備わり、その左右を精緻な彫刻が飾ります。東側には亀と水鳥、西側には鷲と小鳥・唐獅子と牡丹、南北両側には源太郎が得意とした龍の彫刻が施されています。天井には、円形状に鶴と雲の彫刻が施され、外側四方に配された象の木鼻彫刻も見事です。
9F33F6DE-6E15-42DA-8A9C-D844287247E0.jpeg
東側 亀の彫刻
FEB809CE-E0BD-4CB8-80C0-E9D23630B42D.jpeg
天井 鶴と雲の彫刻

 梵鐘は、新潟の土屋忠左衛門の鋳造で、三十三体の観音像が模られています。この梵鐘には、天皇のお許しの証である『勅許(ちょっきょ)』の銘があることから、戦時中に重要美術品として認められ、供出除外と指定されてお寺に戻された名鐘です。
D699E166-FB97-4595-BB2A-B88044BE08CF.jpeg
「越後國蒲原郡新潟住 御伊鑄物師 土屋忠左エ門」の銘が刻まれた梵鐘
 

参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
・小出町教育委員会『小出町史 上巻(序説・原始・古代・中世・近世・民俗)』
・曹洞宗赤城山西福寺パンフレット
nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.3 都野神社 [熊谷の名工]

68DDF37F-5F9C-4DC7-A6F2-5E4E47BB7AFD.jpeg
 新潟県長岡市与板町に所在する都野神社は、与板の総鎮守として古くから信仰されている神社です。直江兼続が与板城を築いた際、九州の宇佐八幡宮の分霊を勧請したことから、八幡宮とも称されています。
 天保7年(1836)の大火により社殿が焼失し、8代藩主井伊直経がその再建にあたりました。寄進者には大阪屋などの有力商人の名が連なります。
 現存する社殿は再建当時のもので、天保11年(1840)に本殿、嘉永元年(1848)に拝殿がそれぞれ造営されました。これら社殿の彫刻を一身に負い手掛けたのが小林源太郎です。都野神社には、天保10年(1839)に書かれた源太郎直筆の「八幡宮御本社彫物使用」、いわゆる今でいう見積書が残っており、当時の貴重な史料として大切に保管されています。
E57D03D7-2AA7-49F5-BBBB-BE25CC3B94C1.jpeg
 本殿は、保護のため鉄骨の覆屋に覆われ、拝殿から本殿にかけての道は石囲いが設置されており、中に入ることはできません。彫刻の様子は、その左右から遠目で確認することができます。本殿は、三間社流造、正面千鳥破風付で、正面に唐破風の向拝を設けます。向拝兎の毛通しには鳳凰、虹梁上には子引きの龍、木鼻には獅子の彫刻が施されています。大羽目彫刻はなく、一見シンプルな造りですが、脇障子や軒下部分、高欄下部には精緻な彫刻が施されています。
E0E941A9-E70F-42D5-AA42-F0CE680C777F.jpeg
本殿正面唐破風向拝廻りの彫刻
6C322D69-C4AC-4B02-8D3C-4DC4055D4C26.jpeg
軒下の彫刻と組み物

 また、拝殿は入母屋造りの銅板葺きで、本殿と同様、正面千鳥破風付、正面に唐破風の向拝を設けます。正面虹梁の上には、波に子引きの亀、左右の柱上部には獅子と獏の木鼻彫刻が施されています。
EDE97C69-B164-4325-BD92-7E3AE314F334.jpeg
波に子引きの亀
13728375-EFC8-4D6D-84F9-014CAAC68485.jpeg
獅子と獏の木鼻彫刻

 都野神社社殿は、江戸時代後期の社殿建築の遺構で彫刻などの意匠が優れていることから昭和47年(1972)に長岡市の文化財に指定されています。


参考文献
・木原尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』


nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.2 曹源寺 [熊谷の名工]

267B9DBE-BF0D-4504-878F-A27A567B2C8A.jpeg
 秋葉神社から南西に4㎞ほどのところに、曹源寺という開創五百年余の古刹があります。山門を潜り正面の石段を登ると、美しく整備された庭園と荘厳な本堂が現れます。
 曹源寺は、室町時代1433年頃、修行に励んでいた大龍音吉禅師が夢枕に立った僧侶の「葛のつるを伝っていき、その根元に至ったならば、そこに一宇を建立するがよい。必ず栄えるであろう」との声に導かれ、この地に小さな寺を造り草源寺と称したことが始まりとされています。1465年頃、公器賢章禅師を招き、草源寺を整備して萬年山曹源寺と改め開山となりました。その後は、栃尾城主北畠山城守から広大な土地を寺領として寄進され、三代に亘り栃尾城主の菩提寺となりました。1840年、火災により寺の大部分を焼失し、1843年に再建されました。その後、寺の修復や整備を重ね、現在に至っています。
 こちらの本堂には、石川雲蝶と小林源太郎が手掛けたとされる欄間彫刻が今に残ります。堂内の一般公開は通常行っておりませんが、今回は参拝というかたちで特別に堂内にあがらせていただきました。
 本堂に入ると、まず目を引くのが扁額の左右にある2枚の欄間彫刻です。向かって右手が「三国志 唐人馬上の図」、左手は「足利尊氏が鎮西に逃れる図」です。この2枚の欄間彫刻は、雲蝶によって手掛けられたものです。横160㎝、縦63㎝、厚さ22㎝の透かし彫り彫刻で、遠近感のある彫りは非常に見事で、馬に乗った偉人達が今にも飛び出してきそうです。
368ADD63-912F-4843-92EE-EB979FEF037F.jpeg
「三国志 唐人馬上の図」雲蝶作
01F940AA-1CE5-4B13-B215-12520ACE942B.jpeg
「足利尊氏が鎮西に逃れる図」雲蝶作
 また、その左隣2面、右隣6面にも欄間彫刻が配され、これらは源太郎の作と伝わっています。
4CD19A25-B1F0-4CDB-9BD2-18E73CA9D54B.jpeg
「新田義貞公」源太郎作
E628E6AD-5CED-4911-9B52-C1FC65F5C380.jpeg
「神功皇后の図」源太郎作
D8F4EBC3-3167-4BCE-8406-5255F29AADAF.jpeg
「天照大神 天岩屋戸の変」源太郎作
E9E88011-1909-492A-94B9-CBA37D28D0F6.jpeg
「孔雀と牡丹の図」源太郎作

 彫刻から話は移りますが、こちらの曹源寺には長岡市の文化財に指定されている延命地蔵菩薩が鎮座しています。本堂左手に位置する地蔵堂に半跏の姿で鎮座する延命地蔵菩薩は、寄せ木造りで高さは3.6メートルに及び、その大きさに圧倒されます。江戸時代後期の作ですが保存状態は非常に良く、当時の彩色、金箔が色鮮やかに保たれています。左手に薬壺、右手には錫杖を持ち、穏やかな表情で瞑想にふける様子からは、どこか温かみを感じます。
5F75AE52-6DAD-4740-8AD8-5B857E7C6131.jpeg
 このほか堂内には、閻魔様や十王像など大小様々な像が並び、地震や豪雪などの自然災害に見舞われながらも、大切に保管され、今に受け継がれています。改めて、文化財に込められた人々の思い、また、その思いを文化財を通して継承していくことの大切さを実感する機会となりました。


参考文献
・栃尾観光ガイドクラブ「栃尾の石川雲蝶を訪ねる」
・曹源寺パンフレット


nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅ー熊谷の名工の足跡を辿るー No.1 秋葉神社奥の院 [熊谷の名工]

990F25AE-ADD1-4870-ABC6-8C8D7E05DDF6.jpeg
 秋葉神社奥の院は、新潟県長岡市に所在する秋葉公園内にあります。火伏せの神、秋葉三尺坊大権現をお祀りする秋葉神社の奥の院として、弘化3年(1846)に建立されました。彫刻は、雲蝶と源太郎によって手掛けられ、翌年から8年の歳月をかけて安政5年(1858)に完成したと伝えられています。
 奥の院は高床に回廊を巡らし、屋根は檜皮葺きで、土台から破風に至るまで豪華絢爛な彫刻で埋め尽くされています。現在、社殿は文化財保護のため、覆屋に覆われており、格子状の編み目からその様子を見学することができます。
 木鼻の獅子、海老虹梁の龍、手挟みの鳳凰が向拝を飾り、唐破風上部には、鷹の彫刻が施されています。これら向拝回りの彫刻は、龍の彫刻などを得意とした源太郎によるものと推測されています。
2FF3E86E-3258-42BD-A256-11500CEE2C91.jpeg
 一方、長押回りは、雲蝶が担当したとされ、烏天狗(からすてんぐ)の図が施されたケヤキの一枚板が、東面、南面、西面に嵌め込まれています。
FB9D4FFB-777D-4D4E-8836-E3F052A63E9E.jpeg
東面「烏天狗の酒宴の図」
C587A5AC-D0F3-4BBC-BDE2-746CCC635EA0.jpeg
南面「牛若丸と烏天狗の試合の図」
F5C58C61-62CE-4DCD-80B4-60EA1D7EABA9.jpeg
西面「烏天狗の敗北の図」

奥の院は、秋葉神社拝殿と共に長岡市の文化財に指定されています。


参考文献
・栃尾観光ガイドクラブ「栃尾の石川雲蝶を訪ねる」
・木原尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
nice!(0)  コメント(0) 

新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.0 雲蝶と源太郎 [熊谷の名工]

 江戸時代後期から明治にかけて活躍した彫刻師の一人に、石川雲蝶という人物がいます。雲蝶は文化11年(1814)、江戸雑司ヶ谷(現東京都豊島区)に生まれ、越後(新潟県)に多くの作品を残しています。雲蝶の作品は、芸術性に優れ、木彫のみならず、絵画、石彫、漆喰細工と多岐にわたることから、「越後のミケランジェロ」あるいは「日本のミケランジェロ」とも称されています。
279D058E-5773-4E7C-86A7-DDFE8800F139.jpeg
(西福寺開山堂の仁王像を彫り上げる石川雲蝶の像)

 そんな雲蝶と同時代に活躍したのが武州熊谷(現埼玉県熊谷市)出身の小林源太郎です。源太郎は、初代小林源八を継いだ二代目で、父の源八は国宝・歓喜院聖天堂の彫刻を手掛けたとされる石原吟八郎を継いだ2代目石原吟八に師事しています。源太郎は、寛政11年(1799)に熊谷市玉井村に生まれ、弘化2年(1845)に越後へ旅立ち、以後、雲蝶と共に多くの作品を残しています。神社仏閣の彫刻に秀で、特に子持ちの竜や中国の物語による人物像を得意としました。
 雲蝶、源太郎ともに、文書等による資料は極めて少なく棟札や彫刻にその名を残すのみですが、二人の作品が現存するところでは、その人柄や生い立ちが語り伝えられています。
 真偽は定かではありませんが、二人は一緒に越後入りしたという説もあります。二人は三国峠の権現堂で金剛力士像の彫り比べをし、互いにその腕を認め合い、共に越後へ向かったといいます。
 今回の旅は、熊谷の名工・小林源太郎の作品に焦点を当て、源太郎の越後での足跡を辿ります。しばしお付き合いいただければ幸いです。



参考文献
・木原尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
・小出町教育委員会1996『小出町史 上巻(序説・原始・古代・中世・近世・民俗)』
・三条市史編集委員会1981『三条市史 資料編第一巻考古・文化』
・阿部修治2020『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』
・日下部朝一郎1982『熊谷人物辞典』

nice!(0)  コメント(0) 

熊谷の名工の足跡を辿るー柴又帝釈天帝釈堂ー [熊谷の名工]

DC1396B8-7C35-4677-A6D3-735EE3FE02B5.jpeg
 映画「男はつらいよ」の寅さんでおなじみの柴又帝釈天は、江戸時代初期に開創された日蓮宗の寺院で、正式には経栄山題経寺と号します。
 境内には、入口の二天門をはじめ多くの彫刻作品がありますが、なかでも目を引くのが御本尊が安置されている帝釈堂の彫刻です。
25E47121-806D-4752-96E4-76D191545417.jpeg
 彫刻を風雨から保護するため、内殿は総ガラス張りの覆い屋で囲われており、堂周りには回廊がめぐらされ、間近で彫刻を見学することができます。10枚の胴羽目彫刻は法華経を題材としており、10人の彫刻師により大正末期から十数年の歳月をかけてつくられました。
ACD86E7D-6C2F-410E-9E61-6A42267A1F33.jpeg
(常不軽菩薩受難の図 法華経功徳の図 小林直光作)

 この帝釈堂の設計を手掛けたのが、国宝・妻沼聖天山歓喜院聖天堂の棟梁・林兵庫正清の子孫、林家6代目の林門作正啓です。
1EA634E8-2785-43E0-97D0-75C11F66766D.jpeg
(妻沼聖天山歓喜院 仁王門)
 妻沼聖天山の第三の門である仁王門は、約350年前の万治2年(1659)に総欅造りで創建されましたが、寛文10年(1670)の大火により半焼けし、林家3代目・正義によって修復されました。その後、明治24年(1891)の台風の倒木により再び倒壊し、明治27年(1894)に、林家6代目・正啓によって再建されました。正啓は、このほか能護寺鐘楼の再建や妻沼大我井神社の造営、太田・大光院鐘楼の造営、尾島・稲荷神社の造営などを手掛けています。


nice!(1)  コメント(0) 

市報「くまがや」9月号 国選定保存技術保持者認定・花輪滋實氏の特集記事 [熊谷の名工]


C4781AE4-08E5-4458-A432-AF73444BF366.jpeg

 市報「くまがや」令和3年9月号において先般、国選定保存技術保持者への認定が決定した花輪滋實氏の特集記事が掲載されています。配布されている市報や市ホームページのPDFデータhttps://www.city.kumagaya.lg.jp/about/kouhou/shiho/reiwa3nen/sihouR309.files/R3.9.30-32.pdf
をご参照ください。


nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 熊谷の名工 ブログトップ