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笑牛2 [近世]

熊谷宿の俳人笑牛の詠んだ句を紹介します。師の涼袋や熊谷の俳人雪叩(雪江)、桃路、桂露等とコラボしています。
〇「あつい日の ようかたづくや 雲の峰」
宝暦7年『俳諧川柳』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「うつむいた 仕事も高し 餝藁(かざりわら)」 涼袋
     「若ふ摘ふと 菜畑へ出る」 笑牛
〇「本服は 涼しい月に こちらむき」 雪叩
     「涼しい義理も 廓では有ル」 牛笑
〇「舞かかる 雪はくさめに 吹もどり」 桃路
     「左リ一字が 読てちかみち」 牛笑 
宝暦8年『俳諧田家の春』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「さつぱりと 子の無い貧が きれい也」 笑牛
     「余所の流れで 家鴨育てる」 桂露  
宝暦9年『春興帖』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「唇を うごかすい花に 使はるる」 笑牛
     「交はる蝶に 蜂の和らぎ」 雪叩 
宝暦10年『俳諧 絵の山陰』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「跡さらぬ 人も呵らず 梅の花」 笑牛 宝
暦11年『俳諧 はしのな』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「けんどんの 箱に庵の ぐわたひしと 碁のいさかひを 撰分て居」
〇「十団子 鼠の引ぬ 置所 仮名で広がる 留主の帳面」 
宝暦10年『俳諧連理香』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「蓬莱の 屑あたためて 年の内」 
宝暦13年『俳諧 香爐峯』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「猟人の 火縄くはへて しぐれ哉」 
〇「鐘(ツリガネ)の 一口吐て 落葉哉」 
宝暦13年『古今俳諧明題集』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「風歇(ヤム)で 心の直る やなぎかな」 
宝暦14年『片歌あさふすま』:『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「粘鳥士の 裏からはいる 柳かな」 
明和2年『春興 かすみをとこ』『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「からすほど さがしあるいて なづ菜哉」 
明和3年『春興帖』『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年

涼袋系俳書『建部綾足全集』に掲載されているもので、熊谷図書館に所蔵されていますので、興味のある方はご覧ください。
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笑牛 [近世]

建部涼袋が、熊谷を訪れた際に宿泊したのが門下の笑牛(長栄)宅であることを紹介しましたが、この笑牛について紹介します。
笑牛(1728-1796):建部涼袋門下の俳人、商人。須賀市左衛門長栄。笑牛と号す。別号廿日庵。熊谷宿で油商を営む。
明和3年(1766)10月4日に江戸を立った建部涼袋は、10月7日に熊谷を訪れ、笑牛宅に滞在しており、この時の紀行が『三野日記』に記されています。『俳諧川柳』宝暦7年、『俳諧田家の春』宝暦8年、『春興帖』宝暦9年、『俳諧はしの東』宝暦11年など涼袋系俳書に多く入集しています。小林一茶の『知友録』にも掲載されています。
寛政8年(1796)造立の星渓園芭蕉句碑「春もやや 気色ととのふ 月と梅」の碑裏に、「雪叩(野口秀航)」「官鯉(竹井新右衛門)」と共に「笑牛」の名も刻まれています(下写真)。
寛政8年(1796)68歳で没す。

参考:内野勝裕「熊谷の俳諧」『熊谷市史研究』第8号:平成28年:熊谷市教育員会
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三浦無窮 [近世]

1月9日の記事で、小林一茶が、熊谷を訪れた際、三浦無窮の家に泊まったことを紹介しましたが、今回はその三浦無窮について紹介します。
三浦無窮(1737-1816):医家。三浦家は医名を代々玄昌と名乗りました。一茶が寛政3年4月12日に宿泊した玄正(玄昌)は、この三代目無窮です。祖先道円が医をもって壬生城主阿部早侯(三代忍城主豊後守忠秋)に仕え、忍城転封に従って移り、祖父玄昌のとき侯の口添えで熊谷に医を開業しました。医名玄昌、諱は真、字は伯誠。青渓居士とも称し、後年無窮居士と改めました。医術を長谷川玄通、経義を江子園、稲垣維明に学び、儒学者としても高名で、和算家としても知られました。
かつて桐生の素封家で死亡とされて入棺した人を往診し、まだ命脈あると治療を施し、蘇生させたので、家人は驚喜し、その謝礼を尋ねたところ、固く辞して「立派の庭園ゆえ、時々見せてもらえればよい」云々の伝えがあります。
また、荒木某という貧家の主が臨終に際し、子女の将来を憂い苦しみもだえた時、「子女の教育はひきうける」といったので某は安心して冥したと言われています。
文化年間(1804-1818)に著した『汚隆亀鑑』には、熊谷宿の牛頭天王の祭礼には、御制札(札の辻)の西方に、祇園柱という白いサラシがまかれた柱が立てられていたが、今はそれが何のために建てられていたのか知らない者が多いと記されています。
また、書家の野口雪江とも親交があり、雪江の墓誌に「文質具に備わり、知徳両つながら修め、花あり実ありて、功業朽ちざらん」と刻んでいます。
主な著に『医事内言』『隠居放言』『道徳経古義』『無窮詩文集』『みちびき草』『汚隆亀鑑』など。
下の写真は、国立国会図書館デジタルコレクション『汚隆亀鑑』です。
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参考:
『熊谷人物事典』日下部朝一郎:昭和57年:国書刊行会、
『熊谷郷土会誌』第2号:昭和12年:熊谷郷土会、
『新編埼玉県史 資料編14』「汚隆亀鑑」近世5:平成3年:埼玉県
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大夢先生墓碑 [近世]

上奈良にある大夢先生墓碑を紹介します。
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大夢先生は、上奈良の代々農業を営む篠沢家に生まれ、本名則之、大夢と号しました。
子どもの頃より読書を好み、私塾を開き習字や漢学を教えました。和歌や漢詩もたしなみ、医術も行い、熊谷宿の蘭学医志村養庵とも交流がありました。嘉永元年(1848)没し、嘉永7年(1855)相続人甚平と門人によりこの碑が建てられました。
書は江戸後期の書家で、菱湖四天王の一人に数えられた中沢雪城、石工は江戸の名匠窪世祥で、寺門静軒が、7回忌に際し送った漢詩が刻まれています。
「出夢入夢莫物不夢骨也 出夢魂則入夢嗚呼先生復為何夢」
読み下すと「夢に出て夢に入りものになく、骨は夢みざるなり。魂は夢に出て、則ち夢に入りずれば、嗚呼先生また何の夢ならん」
夢でもいいから現れてという大夢先生を慕う内容となっています。
大夢2.jpeg窪世升鐫

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舟月斎碑 [近世]

妻沼歓喜院境内にある、舟月斎碑を紹介します。
舟月斎碑1.jpeg舟月斎碑
舟月斎は、市内奈良新田出身の江戸時代後期の修験僧で、挿花の正風遠州流を教え、順任と号していました。
この碑には、舟月斎の事績と造立の契機として、門人達により、舟月斎75歳の長寿の宴が開かれた際、それに招かれた寺門静軒が、碑を建立するにあたり撰文と書を請われ、慶応元年(1865)8月に造立したと刻まれています。
舟月斎碑2 (2).jpeg静軒居士文并書
碑文の終わりには、寺門静軒の漢詩「一生風雅 従事胆瓶 楽以老焉 名与花聲」が刻まれています。読み下すと、「一生風雅 胆瓶に従事し 老いを以って楽しみ 花聲に名を与える」でしょうか。胆瓶(たんぺい)とは首の短い花瓶を指し、風雅を一生の友とし、挿花を楽しんでいた舟月斎のことを詠んだものです。
正風遠州流は、武将で茶人の小堀遠州(1579-1647)を流祖とする華道で、寛政年間に江戸と関東を中心に全国に広がりました。
この碑は、幕末期に、その流派を伝える人物が、奈良新田に存在していたことを示しています。

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東條芹水寿徳碑 [近世]

下奈良にある東條芹水(とうじょうきすい)寿徳碑を紹介します。
東篠1-1.jpg東條芹水寿徳碑
この寿徳碑は、明治20年(1888)に建てられた、東條芹水(1824-1899)の業績を記したものです。
東條芹水は、本名直記。江戸時代から明治期にかけての教育者・俳人です。
文政7年(1824)、奈良村の円通寺住職東條舜清(とうじょうしゅんせい)の子として生まれ、妻沼の両宜塾の寺門静軒に学びました。25歳の頃、家職の修験を継ぐため大和の金峰山で業を積み、諸国を遍歴した後帰郷し、家職を継ぎました。そのかたわら、父舜清が開いていた私塾「北辰院」で子弟の教育にあたりました。
明治6年(1873)に金鑚神社祠官となり、同9年(1876)帰郷して家塾「麗沢学校」を開き、明治32年(1899)76歳で没しています。
詩歌に長じ、『芹水詩抄』『芹水俳句集』等を刊行しています。
この碑の撰文は、明治の三大文宗の三島毅(みしまたけし)、書は、明治の3筆の巌谷一六(いわやいちろく)、石工は、江戸で4代続いた名石工の井亀泉(せいきせん)で、当時の各界の一流どころによりつくられた石碑です。
東篠2.jpeg井亀泉刻
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地蔵尊 [近世]

弥藤吾地内の弥下自治会館脇に建てられている地蔵尊を紹介します。
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この地蔵尊は、享保7年(1722)1月24日に、弥藤吾村下宿の念仏講により建てられたものです。
台座には、延命地蔵経の経文「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無仏世界度衆生 今世後世能引導」が刻まれています。
意味は、「地蔵菩薩は、毎日早朝に諸々の定に入り、諸々の地獄に入って、衆生の苦を離れさしめ、仏無き世界に衆生を済度し、現生も来世もよく引導したもう」となります。
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石工は、松井清兵衛清昌です。この石工は、18世紀前半に熊谷宿の中山道沿いに居を構えていた石工で、市内に20基余りの地蔵尊が確認されていますが、妻沼地域ではこの地蔵尊のみのようです。
ちなみに、この松井清兵衛が刻んだ樋春の旧観音寺の地蔵尊は、平成9年に市指定有形文化財歴史資料に指定されています。

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欣然庵筆塚碑 [近世]

妻沼の歓喜院境内に建てられている欣然庵筆塚碑を紹介します。
この碑は、天保8年(1837)に建てられた森田欣然の業績を記した筆塚です。
欣然は、天明元年(1781)一本木の田島善兵衛の二男に産まれ、幼少より市川米庵に書を学びました。西城の森田家に婿入りし、文政2年(1819)に私塾を開業し、書や俳諧を教え、天保8年(1837)に没しています。
撰文は昌平坂学問所塾長を勤めた佐藤坦、書・題額は幕末の3筆と称された市川米庵、石工は9代続いた江戸の名石工の廣群鶴です。
書を学んでいた市川米庵との繋がりによるものと思われますが、そうそうたるメンバーにより、この石碑がつくられていることが判ります。
歓喜院にお立ち寄りの際には、ぜひご覧ください。
欣然1-1.jpg
欣然2-1.jpg














欣然庵筆塚碑 廣群鶴鐫
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共通テーマ:学問

人形浄瑠璃「文楽」(熊谷文化創造館さくらめいと) [近世]


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熊谷文化創造館さくらめいとにて3年ぶりの文楽公演が開催されます。コロナ対策を行いながらの開催となります。詳細はさくらめいとホームページをご確認ください。

http://www.sakuramate.jp/index.html#20211009

人形浄瑠璃「文楽」
【昼の部】は悲劇を豪快に描いた『一谷軍記』。熊谷次郎直実の登場する演目となります。
【夜の部】は近松門左衛門が描く江戸時代の究極の愛のカタチを描いた『曽根崎心中』。人間国宝・桐竹勘十郎、鶴澤清治の技をご堪能ください!

とき:2021年10月9日(土)
  【昼の部】 開場:13:00~ 開演:14:00~
  【夜の部】 開場:17:00~ 開演:18:00~
ところ:熊谷文化創造館さくらめいと 「太陽のホール」

料金:全席指定(税込)4,000円 (25歳以下:1,500円) ※未就学児入場不可
   昼夜セット券 6,000円(さくらめいと同時購入のみ。25歳以下のセット券販売はありません)
 ※本公演の性質上、1階席の一部と、2階席の販売はありません。

◆Pコード:<505-527> ※プレイガイドでも発売
※無料送迎バスを運行します。 ※託児サービスがあります。(有料・予約制)

◆演目:昼の部【一谷嫰軍記】熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
    夜の部【曽根崎心中】生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段
   ※字幕表記あり ※演目は当日変更となる場合があります。

◆出演:〔太 夫〕豊竹呂太夫
    〔三味線〕鶴澤清治(人間国宝)
    〔人 形〕桐竹勘十郎(人間国宝)ほか



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