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『千とせのあき』(2) [紀行]

吉見の百穴を訪れた後、小杉榲邨一行は、甲山の根岸家に向かいます。そこで、庭のもみぢや、土器石器の古物を鑑賞します。

(前略)
さて根岸氏いたり着く門前に、氏は待むかへて、広間に請し入れらる。其席の装飾ほどほどにしつらはれたるも、ことに庭苑の紅葉は、けふを盛りと染め出たる、何ともいひ難きを、しばし茶菓の設け一巡了りて、やがて木のもとに立より給ふ、まづ東久世君、
「かひがねは初雪白く尋ねこし里のもみぢはさかりなれども」
「松風にうき世の塵やはらふらんまばゆきばかりてる紅葉かな」

松浦君、
「世につくす君が心のいろ見えて、一しほあかき庭もみぢかな」
「松が枝にまじるかへでのもみぢして青地の錦さらす庭かな」

長岡君、
「この宿のこきくれないにくらぶればよそのもみぢは色なかりけり」

蜂須賀君、
「たづね来しよし見の里のもみぢ葉のこぞめの色は冬ものとけし」

榲邨も、
「あかなくにをしも見つつ此宿の盛りのもみぢこがれこがれて」
「さかき岡常葉のかげにまじりてぞ色もよし見の庭のもみぢ葉」

井上君、
「さかりなる宿のもみぢ葉一葉たにひろひて我は家づとにせん」
「いろかへぬ松の木の間に植ませし紅葉は久に盛見すらん」

それより離れ家の古物陳列場なる稽照館に、一同いたり給ひて、くさぐさの上古物、石属玉器土偶土器金属類、世間にまれなる数百点を縦覧し給ふ、この室内には、かの百穴、また冑山の古墳を始めて、ここの近傍より発見の、石玉土金属類の奇珍も多く見ゆ、さて庭づたひに、もとの席に着き給ふ、苑内に石剣石船などあざなす古器のいと大きなるを置すえたる、みな驚かれぬ、なほ石剣の大なるもの、床の間にも見えたり、これみな本国にて発見せしものなりといふ。また故三篠公の額字をかかげたる、その緑苔絶塵とあるこころを、松浦君また、
「こけ青くちりにけがれぬ此庭のもみぢの色は世に似ざりけり」

東久世君もまた、
「緑苔絶塵点 棲鳥有清音 霜落知多少 錦楓紅浅深」

この時、津軽君追すがいて来り給ひて取りあへずも、
「とき葉木に枝をかはして染つくす庭のもみぢは今さかりなり」
「此やどのもみぢ深くも染なして庭はにしきになりにける哉」

かくて晝食をあるじす、荒川の鮎のなますあつものなど、所からめでたし、酒饌たけなはならむとする時、諏訪君来り給ふ、なほ取あへず。
「とひ来れば今を盛にそめ出ていろもよし見のさとのもみぢ葉」
「ときはなる松の木間にまじりてぞことさらあかき庭のもみぢ葉」

おくれて来つるよしを人々のいはるるに、また、
「さらぬたにおくれてとへる我顔にてるもみぢ葉の色ぞまはゆき」
「はつ霜のおくれてとへとももみぢ葉のあかきこころはあにおくれめや」

武香氏、伴七氏も、ここさらず終始まかなひ、酒饌いとよくすすめなどしつつ、武香氏、
「あなうれし高くたふときまれ人のもみぢの錦きて見ますとは」
「としごとにひとます君のひかりにいろこそまされ庭のもみぢ葉」
「ことしまた来て見ますべくまつ蔭のもみぢ一きは色はえにけり」

同し妻直子も、
「かみな月小春おほゆるのどけさにみやこの人もとひ来ましけり」
「ふりはへてとぶらひまししあて人にもてなしもあらず山里にして」
「山里はささぐるものなかりけり心のどかに一日あそびませ」

この間に、筆硯を弄し書画の合作あり、囲碁のいどみなど、いと風流の歓をつくす、井上君、
「もみぢ葉の大さかづきにえひにけり園のあるじのなさけくみつつ」

長岡君
「欣君慕古有高風 主客相□杯酒中 秋興多時詩興好 満堂裁句艶於楓」

またあるじの心づきにて、庭のもみぢ葉を絹にうちつけて、諸君の家づとの料にとものせさするを、東久世君、
「しづがうつきぬたならねどつちの音もけふのあそびの一なりけり」

また広田華洲が何くれと書がきて、人々讃しつるうちに、土偶にもみぢの折枝をあしらひそへたるに、東久世君、
「ものいはばはにはにとはんかぶと山むかしもかくや秋のもみぢ葉」

このほかのもの、さのみはとてみなはぶく、なほ後園うちめぐらんとてものし給ふに、此地は石器時代の遺跡にして、石器、土器の破片、ここかしこに散布す。またそこに丘あり、池あり、あづまやなどしつひものしたる、所々の命名、あるじのこひたるに、それよけむ、これいかがなど、かたみにゆづりてきはやかならず、よくかたらひてなど、其名つくる事はあとにのこしつつ、冑山神社に詣て給ふ。ここは兂邪志國造兄多毛比命の奥つきなり、高さ五丈ばかり、めぐり百六七十間、三段にたたみあぐるが如き形状なれば、このかぶと山という名も起りしなるべし。まづ松浦君、
「かぶと山もみぢの色は緋おとしのよろいかざると思ひけるかな」

長岡君
「もののふのあかき心にてらされて木々のいろよきなぶと山かな」

井上君
「ひおとしのかぶと山ともいひつべき色にひほへる木々のもみぢ葉」

榲邨
「かぶと山きつつぬぬかづくわが袖にちりかかる木の葉ぬさとたむけん」

なほ此山めぐりして、うけらが花、りうたむなど手をりつつ、もと来し家にかへりものするに、日漸くかたぶきぬれば、津軽君、
「夕日かけななめにさしてあかぬめのまばゆきまでにてるもみちかな」

長岡君もまた、
「蒼然暮色自西来 更愛紅楓映碧苔 仙客圍棋且把蓋 隔京雖遠醉忘回」

榲邨もなほあきたらで、
「庭もみぢ夕ぐれないになりぬれどあかぬ錦をきてたびねぜむ」

また、晩餐の設けいとねんごろに、頻に盃をすすめて、夜に入る。七時ごろ暇をつけてたちかわれ給ふ、このかへさには、熊谷驛より汽車にのらんとして、例の腕車を駆りていそがすに、荒川をわたる時、諏訪君、
「日はくれて水の音すごきあら川のはしもとどろにわたるもろ人」

程なくも熊谷に着ぬ、三十分ばかりも待あへるに、けさ驛々の歌よみ給ひし定にて、この驛を諏訪君、
「くまがやのはてなし堤はてもなく人めはかれてさびしかりけり」

など口すさび給ひつつうち乗る、伴七氏、及び本郡長代理根岸千引も見送り奉る。すみやかに発車するに、けさ龍蔵に聞残されたる台湾の新聞を、何くれつづかするに、かの新高山にのぼりて実際を探り、自身最も苦辛を感しつる事どもなどこまかに問答するにいとめづらし。又吹上驛を津軽君、
「ちちふねは初雪ふれりこの朝けさむくも風のふきあげの里」

なほこの少時間の車中にして、かの百穴の実に不可思議なることにも及ぶに就て、立かへりて今少し前年のしらべ越したる一端をいはんに、その穴の所在地黒岩、北吉見ともに、明治十年十一月、根岸氏を始て有志家これを掘り増し、同年十一月に博物館よりも検査せしよしなるが、是をおほやけに調査して、追々と今の如くに夥多の数を露出するにいたりしは、二十年八月このかた、帝国大学の費用支出をもて、前にいふが如く、坪井氏はじめの功労によれるものなりけり。あなあやし、あなめづらし、あな夥しといはんもおろかなりや。かくとりどりの談話にうちまぎらかされて、いつのほどにか上野の停車場にかへりつきぬ。かくて七たりの君たちは、おのおの別れをつげて立ちかへらせ給ふ。けさあり明月の影ふみて、ここにものしぬるを、なほこの夜半ちかく帰り来て思へば、げに短きころはひとはいへと、のどかに遊び暮らしたるがいとうれしくて、
「けふ一日むかしの蹟をふみ見ればちとせの秋の心地こそすれ」

などつぶやきつつ、鳥居にも立わかれぬ、さてかうありし事どもを紀念につまじるしはべりて、七たりの君またあるじ氏にも見せ奉らんに、この記事の名なくてやはとて、をこがましくも、この一句をやがて名におほせつつ、清書ものするは、明治三十三年十二月のはじめつかた、小杉榲邨。

下の写真は、熊谷市指定有形文化財 建造物「根岸家長屋門」
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【参考・引用文献】
『千とせのあき』明治34年 小杉榲邨 国立国会図書館冑山文庫(請求記号187-177)
「好古家根岸武香の文化活動とその交友―小杉榲邨手記『千とせのあき』からー」『熊谷市史研究 第11号』新井端 平成31年 熊谷市教育委員会 

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『千とせのあき』(1) [紀行]

国学者の小杉榲邨(こすぎすぎむら:1835-1910)は、明治33年11月19日、冑山の根岸武香(1839-1902)の誘いにより、東京から、比企郡西吉見村(現・吉見町)の百穴と、大里郡吉見村冑山(現・熊谷市)の根岸家を訪れており、その際の記録を『千とせのあき』:明治34年刊に残しています。
同行者は、蜂須賀茂韶(1846-1918:はちすかもちあき:侯爵、フランス公使、東京府知事、貴族院議長)、東久世通禧(1834-1912:ひがしくぜみちとみ:伯爵・神奈川県知事・茶人)、津軽承昭(1840-1916:つがるつぐあきら:侯爵、津軽藩主、歌人)、松浦詮(1840-1908:まつうらあきら:伯爵・平戸藩主、茶人)、長岡護美(1842-1906:ながおかもりよし:子爵・外交官)、諏訪忠元(1870-1941:すわただもと:子爵、歌人、茶人)、井上勝(1843-1916:鉄道局長)、鳥居龍蔵(1870-1953:とりいりゅうぞう:人類学者、考古学者)。
上野からの車中、百穴、根岸家で、多くの句を残していますので紹介します。


(前略)
「今この武蔵國に名高き、北吉見の百穴とあざなする幾多の横穴あり、實に一奇跡を極めたれば、これを探りこれを点検しつつ、何くれと評論する人、ますます多く出来るにあはせて、此在地を所有する、根岸武香氏うながし出て、わが庭苑の紅楓をも見がてらになど、色に出てそそのかさるるに、それいとよけむ、其のもみぢも賞しつつ、一日の漫遊を試みむと語らひかはし給ふかたがたは、侯爵蜂須賀正二位、伯爵東久世正二位、伯爵津軽従二位、伯爵松浦従二位、子爵長岡正三位、子爵諏訪正五位、井上従三位の諸君にして、恰もよしことし十一月十九日、霜晴に乗して出立給ふ、(中略)

図らずも前夜鳥居龍蔵の、榲邨がりとふらひ来しからに、よきをりなりとて、龍蔵は榲邨いざなひものす。そもそも此百穴といふものの、一奇観地は、今は埼玉縣比企郡松山町の東に方り西吉見村大字北吉見に在りて、松山城址の麓なり。また根岸氏の本宅は、大里郡吉見村冑山といふ地にあれば、この一奇蹟とは凡一里餘隔たれり。さてこの一奇蹟を探らんには、上野より汽車に乗し、鴻の巣の驛に達し、そこより下車して松山に至るを順路なりとす。されば此漫遊よろづの事は、根岸氏紹介せんと契りおきて、その期日を待しに、この日や風もなく、いとのどけき小春の時を得がほの天気にして、午前六時前までに上野停車場にうち揃ひ、さて六時第一列車に発程し給ふ。根岸の子息伴七氏、御むかひながらにとて、早くもここに出張し、一行とともに時間遅しとうち乗る、津軽、諏訪の両君は、次の発車にものし給ふ定なり。然ありて後、汽車ははしり出ゆくに、車中の御つれづれさましは、例の御口すさびに、今経過しつつゆく驛々の名を題にものしてむと、議決せられつるもいと興あり、さればとて、榲邨まつ戯れに、
「われはけさいつつつくづく音さえし鐘のうへ野を踏つつぞ来し」

といふ、次に長岡君、
「末とほき田はたの稲のほがらかにげにも黄ばめる朝つく日かな」

と詠し給ふを、黄ばめる日といふには、必子細あるならんとて、松浦君しきりに戯れかかり給ふ、またをかし。次に東久世君、ふとことに紙に鉛筆して
「観楓途上、毎驛命名車上戯作、
残月一痕橋畔霜、観楓今日卜晴光、車丁開戸呼王子、便是停車第二場」

井上君、いとはやりかに王子のこころを、
「扇屋によらんとすれど湯気立る車はやくもめぐり過ぎゆく」

次に東久世君、また、
「蔦楓かきはじははそもろもろのにしきの色もあかばねの里」

何となくうち見出して、榲邨、
「あら川の浪の上の霜と見るばかり水の気白し橋の見わたし」

長岡君も同じく、
「川そいの堤へだてて白鷺のゆくと見えしは帆かけなりけり」

次に東久世君。
「けふ更に色こかるらむわらびたく賤が住かの軒のもみぢ葉」

次に蜂須賀君、
「ありあけの月にみやこを立出てうらわのさとに朝日にほへり」
「桑畑も麦生も霜のけぶるなりうらわのさとの冬のあけぼの」

次に井上君、
「ひつち田の稲づか白く霜見えてあさ風さむし大みやのさと」
「過し夏ほたる狩せし大宮のさとわも今は霜がれにけり」
「大宮のさとわさびしく霜がれぬ藤の戸とはん人もなからむ」

次に榲邨、
「走り来てはやも着むと車荷をあけをのうまや人さわぐなり」

次に松浦君、
「木がらしの吹あつめたるもみぢ葉のこほりくむなり桶がはの水」

次に東久世君、
「桑畦の霜気のけぶりたちかすみあさ日にほへり鴻の巣のさと」
など

(中略)
さてこの百穴といふ洞穴を、松山道より遠く望むに、裸山のかたくづれせしが如く見ゆる所に、黒點数十をうちしやうに見えわたれるが、即ちこの横穴なり。実に奇観とも不思議とも、いふべかざるものならん、松浦君は、廿八年の五月にものし給ひ、長岡君もをとつ年ものし給ひし事、上にいふが如く、そのをり榲邨は秋の一夜といふ一冊子をしるしよく心得をれるを、始めて目撃し給ふ諸君は、あはやと驚き見給ふもことわりなり。又一丁許こなたに岩窟ありて、観世音をまつれり、なほ此いはやも百穴同質の凝灰岩なり、さて百穴の前なる一楼屋に入らむとするほど、大澤藤助待むかへ奉り、即ちその一楼の千古観といふにあないし、ここにて一まづやすらひ給ふ、松山警察署詰の警部某々等も訪来ぬ、この楼上にて茶菓の設けありて、さて横穴をゆるやかに観覧し給はんとす。そもそも洞穴をいまに百穴といふは、むかしよりの総称にして、人々出張しつつ所々発掘せしからに、現在に見認るもの二百三十七穴あり、そのむかしは二十ばかりあらはれ居たりしとなり。博士追すがひて其二百三十七発掘せし時、戯れに、
これはこれはとばかりあなの吉見山とうたひしとなむ、榲邨もをとつ年、はじめてこれを見て驚きつつ、良き人のよしと吉見のよこ穴は横見のさとに横山のさとに横山なせり。と戯れたりき、けふ東久世君、
「まつ山のくしき岩むろいつの代に誰がつくりけんくしき岩室」

蜂須賀君、
「めづらしと世々に伝へん松山の松にちぎりてくちぬいはやは」
「うづもれし百のいは室ほり出てむかしのさまを見るぞかしこき」

井上君、
「蓮の実の穴かとばかりみゆるかなあまたつくりし山の石室」

下の写真は大正期に発売された吉見百穴の絵葉書
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熊谷市樋春の穴薬師 [近世]

熊谷市樋春の穴薬師を3D化してみました。
奥中央の薬師石像には、寛政九年巳年五月の銘があり、その前の奉納石燈龍には、享保五年十一月(五月)十二日、村中と刻まれています。
この薬師様を通称「穴薬師」と呼んでいます。
この薬師様は目の病気に大変あらたかで、願を掛け、治るとそのお礼として穴のあいた石を奉納したといいます。3D画像を拡大すると、敷かれている石には穴が空いていることがわかります。
大正時代ころには穴薬師講という講が形成されており、その講金で薬師堂の修理もしたといい、大正四年の寄付者名を記した木板が、堂内に残っています。
https://scaniverse.com/scan/vwubuk4cgjxa6gko?fbclid=IwAR0TA1CO5a8AuFLByjKPmF5np2TCRX8AAHXUNVswlaaMJY5ZyOxQelRnSVI
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魂膽夢助譚(こんたんゆめすけばなし) [紀行]

弘化4年(1847)に、一筆庵主人が書いた『魂膽夢助譚』(こんたんゆめすけばなし)で熊谷の様子が書かれていますので紹介します。
概要:夢輔という怠け者が、金に不自由なく、長生きして遊んで暮らすには、信心願かけでご利益を得るのが近道と考え、七福神の中でも一番暇そうな福禄寿にお願いした。すると福禄寿から、ある生き物をみつめて呪文を唱えると、その生き物と魂が入れ替わるという術を伝授された。
ある時、夢輔と粟九郎は、叔母の遺金二百両を貰うために、上州二連木に向けて出立する。板橋の宿より中山道を通って上州に至る途中、熊谷に立ち寄っています。

「夢輔譚 五編 下の巻」
(前略)
ゆめ「ここが久下村といふ所で、茶漬の名物だ。
あは「酒のいい所で、一口呑で急ふ。
ゆめ「それじやア熊谷の和泉やだト。
二人は道をいそぎしかば、ほどなくくまがやへの宿にいたり、いづみやにてそこそこに酒をのみ、蓮生寺もけへりに参けいせんと、心いそがはしく、此宿も通りすぎ、はやくも駕原の立場にいたる。この所は、熊谷、深谷の間にて、しがらきといふ立場茶やは牛蒡(ごぼう)のめいぶつ也。殊に自製の茶は当所の水にあひて風味よく、旅人茶をもとめていへづとになす。銘をしがらきとよべり。煮花に牛蒡ふたきれにて、茶づけめしを売といへども、其繁昌は中山道第一の立場にて、旅人ここにあらそひ休みこんさつす。
ゆめ「ここで飯を喰て行ふ。
あは「なんだ茶漬か。
ゆめ「ムム酒も肴も銭さへ出せばお望次第ヨト。
こしをかける。女茶を持くる。
あは「酒なしの飯がいい。
ゆめ「わるツくツても仕かたがねへト。
いふ内二人まへ茶づけを持てくる。二人はまじめにめしをくひ、
ゆめ「どうも茶はよつぼどいいぜ。
あは「山本山でも怊(かな)はねエなアト。
茶づけをくひながら、
「熊谷の和泉やも酒はいいが、夕べの吹上の酒はよツぽどよかった。
ゆめ「そのはづだア。壱両壱分取れたものを惚きって夜這に行ほどだから、能なくつちやア妻らねエ。
(後略)

*立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にあって、旅人が休息する場所の事で、熊谷宿と深谷宿の間の籠原に、牛蒡と茶漬けが名物の「しがらき」という店があった。竹野半兵衛1827年著の中山道の商業名鑑『諸国道中商人鑑』に、この「しがらき」が絵入りで紹介されている(下写真)。
*作者の「一筆葊」とは、「岐阻道中熊谷宿八丁堤景」を描いた、絵師で文筆家の溪斎英泉の亭号

参考
『魂膽夢助譚』横山芳郎 平成8年 ㈱考古堂書店

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竹野半兵衛1827年『諸国道中商人鑑』
「志がらきノ笹屋源蔵」
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駅弁掛紙22 [その他]

秋山商店駅弁掛紙

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介22回目。今回は秋山商店の「秋山亭特製幕の内弁当」です。
馬上の熊谷直実が、扇を挙げて、沖の敦盛を呼び止めている一の谷挙扇の図が描かれています。定価700円。
左側には「お願い お召し上り後の空箱等はひもで結び車内又は駅備付えつけの屑物入れにお入れください。」、下には「国鉄構内営業中央会会員 高崎線熊谷駅 秋山商店謹製」と記されています。
調整印は、(昭和)59年8月7日7時のスタンプが押されています。
この頃の熊谷駅は、昭和57年に上越新幹線が開通し、昭和58年には東部熊谷線が廃止となり、昭和62年には国鉄民営分割化が行われています。コンビニやファストフード店の普及により、駅弁を取り巻く環境は徐々に厳しさを増し、平成10年頃には熊谷駅から駅弁は姿を消していきました。
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一千部供養塔 [近世]

市内中曽根の大日堂内に建てられている一千部供養塔を紹介します。

この供養塔は、明和6年(1769)に塚本武兵衛により、妙法蓮華経などの経典を一千部読誦したことを記念して建てられた供養塔です。。
正面に「一千部供養塔」、右面に「大日如来江 金七両寄進 蘭間代塚本要助 明和六次己丑歳三月吉烏」、左面に「当所願主塚本武兵衛」。台座の3面には、千部供養に参加した76人程の名が刻まれており、最後に、「天水山岸権七」と刻まれています。
山岸権七は、18世紀後半の大里郡屈戸の石工で、石造物に自分の名前を彫る際、「新川天水」「天水川岸」と表記していることから、熊谷市津田新田辺りに住んでいたと推測されています。また、「権七正方」と「権七英正」の2つの名があり、2代続いた石工と考えられています。
現在、権七の作品は、近隣市町に6例程確認されています。
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僧形庚申塔3D化 [近世]

熊谷市西城の長慶寺の、熊谷市指定文化財「僧形庚申塔」を3D化してみました。
この庚申塔は、寛文元年(1661)、他地域の庚申講により建立されたものを現在地に移したと伝えられている。主尊は、僧形の庚申で、上部に二鶏(二羽り鶏)、腰部の左右に二匹の猿が配されている。主尊は一身四臂(四体の腕)で、中央で合掌、他の二臂は剣と三鈷叉を持つ。腰部の左右に二匹の猿が配されている。
https://scaniverse.com/scan/cyvzfngwgebslau5?fbclid=IwAR3SfpulXOPGQWvDLhDoQsOlEYMshv0df6PpRgHDyTmJ4bHXWU4_kjyojhE
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きかは便郵140 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介140回目。今回は「熊谷警察署」です。
この写真は、大正15年から昭和8年の間に撮影された、現在の本町2丁目の中山道に南面して建てられていた「熊谷警察署」の建物です。
石造2階建ての建物で、中央にアーチ天井の入り口があり、塔屋が設けられています。入り口上面の壁面には、「熊谷警察署」の文字と共に警察の紋章である「旭日章」が取り付けられています。建物前には、鉄骨で望楼(火の見櫓)が建てられています。
明治4年の廃藩置県と同時に、熊谷県では聴訴課内に「取締官」および「捕亡方」が置かれ、管内の取り締まりを行いました。明治7年には熊谷333番地にその出張所が設けられ、これが現在の熊谷警察署の始まりとなります。明治8年には「捕亡方(捕亡吏)」は廃されて「卒」となり、同年10月には「巡査」と改称されたことから、巡査屯所と称しました。
明治9年1月には、内務省達によって屯所が廃止され、8月には熊谷県から埼玉県管轄となり、10月に熊谷警部出張所となりました。明治10年2月には、熊谷警察署と改称され、明治12年12月には庁舎を築造し、移転しました。
この建物は、大正14年の熊谷大火によって焼失し、再建された建物が、この絵葉書の建物です。しかし、この建物も、昭和20年の熊谷空襲により焼失しています。
現在の石原地内の国道17号(中山道)と国道140号・407号の交差点に位置する熊谷警察署は、本町から移転後さらに平成8年に建て替えられた建物です。
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「あなたも古代人!!」土器・はにわづくり [お知らせ]

令和5年度 夏休み企画「あなたも古代人!!」土器・はにわづくりで作成した作品を、熊谷デジタルミュージアムに公開しました。
熊谷デジタルミュージアム踊る埴輪の部屋〉埴輪を作ろう!!〉2023年夏のコンテンツで公開しています。
なかなかの力作ぞろいですので、ぜひご覧ください。
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シンポジウム「荻野吟子との新たな出会い」 [お知らせ]

熊谷市史調査報告書『荻野吟子ーその歩みと出会いー』刊行記念シンポジウムとして「荻野吟子との新たな出会い」が下記のとおり開催されます。
日  時:令和5年9月23日(祝・土) 13:30~(13:00開場)
場  所:妻沼中央公民館大会議室 熊谷市妻沼東1丁目1
内  容:第1部 講演会「荻野吟子と内藤ます子、田中かく子ー明治前期に輝く3人の女性ー」尾崎泰弘(飯能市立博物館長)、「社会改良家としての荻野吟子」広瀬玲子(北海道情報大学名誉教授)、「その後、ではない荻野吟子」林美枝子(日本医療大学教授)
 第2部 パネルディスカッション「荻野吟子との新たな出会いと地域活動のこれから」
申込方法:9月11日(月)から電話にて受付(先着120名)。048-567-0355(熊谷市史編さん室)
又は電子申請で申し込み。URL:https://apply.e-tumo.jp/city-kumagaya-saitama-u/offer/offerList_detail?tempSeq=59039
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