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埼玉県比企丘陵地域 日本農業遺産認定記念講演会 [お知らせ]

比企丘陵の天水を利用した「谷津沼かんがい」による農法が、令和5年に日本農業遺産として認定されたことを記念して、下記のとおり、講演会が開催されます。
みなさまの参加をお待ちしています。

日時:令和5年11月12日(日)午後1時30分から
会場:国立女性教育会館(ヌエック)講堂 埼玉県比企郡嵐山町菅谷728
講師:岩手大学名誉教授 広田純一先生
申込:比企丘陵農業遺産推進協議会ホームページから電子申請
締切:11月7日(火)17:00まで
問い合わせ:比企丘陵農業遺産推進協議会事務局(滑川町産業振興課内)0493-56-6906
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福崎正久顕彰碑 [近代]

江波の宝蔵院境内に建てられている福崎正久(ふくしままさひさ:1885-1930)顕彰碑を紹介します。
福崎正久は、明治18年(1885)東京芝二本榎町に生まれました。10歳の時、大阪の天野山金剛寺に入り得度し、25歳の時に幡羅郡長井村上須戸(現・熊谷市上須戸)の西光院住職となり、同村江波の宝蔵院、同村弁財の薬王院も兼務しました。
西光院では、前住の富田隆栄が私塾「金剛学舎」を明治30年(1897)に開き、高等小学校卒業以上の子弟を対象に、漢籍、数学、社会などを教授しました。明治43年(1910)隆栄の転住に伴い、正久が住職兼塾長となり、講義を行い、教育の振興に尽力しました。大正9年(1920)から11年(1922)にかけて、国が提唱した民力函養講演会の講師に選ばれて郡内各所で普及活動を行い、更に融和事業についても多大の功績を残しました。
昭和5年(1930)病のため46歳で逝去しました。
昭和9年(1934)、師の功績を伝えるため、同志により頌徳碑「内田福崎両君の碑」が旧長井村役場脇に造立されました。現在この碑は、江波の宝蔵院境内に移設されています。

参考文献
『妻沼町誌』妻沼町役場 1977
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駅弁掛け紙24 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介24回目。今回は、清水屋の御寿司です。
三日月の枠の中に遠景に山と鳥が描かれ、右下にはすすきと籠目のイラストが描かれています。「熊谷寺 西北八丁 熊谷堤の桜 南二丁 上岡観音 南一里」と記されています。下の欄外には「鐵道構内営業人組合東京下谷中根岸山水社印行」と記され、定価は「金貮拾銭」です。
調整印は、昭和12年10月21日午前6時です。
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きかは便郵142 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介142回目。今回は「熊谷附近ノ機関銃射撃」です。
この写真は、大正7年(1918)から昭和初年の間に撮影された、「熊谷附近ノ機関銃射撃」の写真です。
荒川の河川敷と思われる場所で、藪の陰に隠れ、軍人が4人一組で、三脚に据えられた機関銃を構える様子が写されています。
手前の男性はリュックを背負い、腰には、水筒と三十年式銃剣が下げられています。この三十年式銃剣は、明治30年(1897)に陸軍で採用された銃剣で、第二次世界大戦終戦まで日本軍の主力銃剣として使用されていたものです。特徴は、日本刀を模した片刃の刀身で、左右に血抜き用の溝が彫られていました。
機関銃は、左側に保弾板(フィードストリップ)が取り付けられている三八式機関銃です。これは、明治40年(1907)に、陸軍砲兵南部麒次郎少佐(1869-1949)が設計したもので、三脚上に搭載して使用する空冷式機関銃です。口径6.5mm、全長1,448mm、銃本体重量28kg、三脚重量21.672kg、総重量55.5kg、有効射程距離2,000mで、装弾に保弾板を使用し、30発を連射することができました。
三脚は、前方に2脚、後方に1脚が延び、この後方の脚上には銃手用のサドルが取り付けられていました。写真をよく見ると、右から二番目の男性が銃手と思われ、膝射姿勢をとっており、足の間には後方に延びる1脚が写っています。
ちなみに、市内荒川右岸の平塚新田には、昭和16年頃に熊谷地域の青年学校の実弾射撃場がつくられ、当時の熊谷市役所内に実弾射撃場事務所が置かれ、使用許可を出していました。現在でも、江南台地崖線下に、コンクリート製の監的壕(射撃の着弾点や命中率を確認するための施設)の一部が残っています。
熊谷付近の荒川河川敷で、陸軍の機関銃射撃訓練が行われていたことを記録した貴重な写真です。
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荒川大橋 [近代]

荒川大橋は、明治42年(1909)に、熊谷と対岸の村岡を結ぶ荒川に、橋長506m、幅員4.2mの木桁橋として架けられました。
昭和38年刊の『熊谷風土記稿』日下部朝一郎著には、「橋の名については、従来より村岡の渡しと呼ばれていたので、県は「村岡橋」としようとしたところ熊谷側は県庁へ押しかけ「熊谷橋」を主張したが、結局「荒川大橋」と命名」されたと記されています。
また、「橋の鋳板は当市林有章氏の筆となった」と記されています。
この銘板は現存しませんが、以前「きかは便郵2」紹介した絵葉書の写真に写っていました。
石製と思われる橋の親柱に埋め込まれた銘板に「荒川大橋」と楷書体で記されています。
書に秀で、碑文・簑刻など100基余りの石碑の書を書き、百碑先生とも言われた林有章(1859-1945)が、橋の銘板の字も書いていたようです。
ちなみに、現在の荒川大橋は、密接する2本の道路橋となっており、下り線が1969年竣工の「荒川大橋」、上り線が1980年竣工の「新荒川大橋」となっており、2本まとめて「荒川大橋」と呼ばれています。
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3D 女塚1号墳出土武人埴輪 [古墳時代]

市内上中条の中条古墳群女塚1号墳出土の武人埴輪を3D化してみました。
この埴輪は前方部周溝の外提から出土したもので、高さは68㎝です。文様の描かれた四角い盾を持つ武人を表現しており、頭には笄帽(こうがいぼう)という帽子、顔の両脇には下げ美豆良(みずら)という当時の男性の髪形が表現されています。
https://scaniverse.com/scan/736pys7b2mtrk3qs?fbclid=IwAR0AtX-ZbwUr5op-rG_pCUTj7b8zQClArB8bv6IaQKJ-7avLFJuYk2JTwSc
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小学生が描く「熊谷の古代」絵画コンクール [お知らせ]

江南文化財センター開館15周年記念事業として、小学生が描く「熊谷の古代」絵画コンクールを下記のとおり開催します。皆様の応募をお待ちしています。

テ ー マ:「熊谷の古代」をテーマにした絵(土器や土偶、はにわなど、テーマに合ったものなら自由)
応募締切:令和6年1月15日(月)
作品内容:サイズ/八つ切*必ず横向きで描いてください。画材/水彩・パステルなど自由 下の応募用紙に学校名、学年、氏名、住所、電話番号を記入の上、作品の裏面中央にのり付けしてください。
対  象:熊谷市内の小学生
受付場所:熊谷市立江南文化財センター 〒360-0107 熊谷市千代329(平日午前9時~午後5時*土日祝日は休館)締切日までに直接窓口にご持参いただくか、郵送にてご提出ください。
作品公開:応募いただいた作品は、インターネット上の「熊谷デジタルミュージアム」で公開します。学校名・学年・氏名を公表しますので、予めご了承ください。
入選発表:厳正な審査により4つの作品を選出します。選出された4作品は、江南文化財センター入口の床面装飾のデザインとして採用します。結果発表は、郵送によりご連絡させていただくとともに、熊谷デジタルミュージアム上でも発表します。
作品返却:応募作品は原則返却しません。
問い合わせ:熊谷市立江南文化財センター 048-536-5062 平日午前9時~午後5時 土日祝日は休館
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機銃弾弾頭 [戦跡]

現在整理作業を進めている千代遺跡群の西原遺跡から出土した、長さ4.3㎝、直径1.1㎝程の機銃弾の弾頭を紹介します。
この弾頭は、九九式普通実包と思われ、戦前、日本陸軍が使用した7.7mm弾薬で、九九式小銃、九九式短小銃、九九式軽機関銃用の弾薬として、人馬の殺傷を目的に使用されました。
本資料には、長さ2.2㎝程の施条痕が7本確認され、実際に発射されたものと判断されます。

ちなみに、荒川右岸の平塚新田には、昭和16年頃に熊谷地域の青年学校の実弾射撃場がつくられ、当時の熊谷市役所内に実弾射撃場事務所が置かれ、使用許可を出していました。現在でも、江南台地崖線下に、コンクリート製の監的壕(射撃の着弾点や命中率を確認するための施設)の一部が残っています。
西原遺跡とは約7km程離れており、訓練中の流れ弾が飛んできたにしては距離がありすぎ、なぜ千代地区の西原遺跡から見つかったのかは謎です。
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陶製手榴弾 [戦跡]

現在、千代遺跡群(奈良・平安時代編)の整理作業を進めていますが、姥ヶ沢遺跡の土壙から出土した陶製品片を紹介します。
この資料は、陶製の手榴弾で、第二次世界大戦末期に日本海軍で製造された手榴弾です。通称は四式陶製手榴弾です。終戦末期の金属資源の不足に対応し、日本海軍が、それまで鉄で製造されていた手榴弾の材質に陶器を使用し製造したものです。
開発は名古屋の陶器会社が最初であるとされ、その後、有田や波佐見といった瀬戸物生産地で量産が行われるようになりました。各地で生産された陶製手榴弾は、火薬や信管など起爆装置を充填するため、埼玉県の陸軍造兵廠川越製造所とその下請け工場である浅野カーリット埼玉工場に運ばれました。
完成品は硫黄島の戦いや沖縄戦に投入され、硫黄島や沖縄で不発弾が採集されています。
終戦時、浅野カーリット埼玉工場には600トンの未完成品があり、今でも川越市を流れるびん沼川の川原には、廃棄された大量の陶製手榴弾の陶片を見ることができます。元従業員によると、破砕した手榴弾を自宅の庭に撒いたり、庭の花壇に流用したりしたといわれています。(参照:wikipedia「四式陶製手榴弾」)
この陶製手榴弾が、なぜ姥ヶ沢遺跡から出土したのかはわかりませんが、戦後従業員により持ち出されて二次利用された後、廃棄されたものかも知れません。この破片は、当時の日本の窮状と混乱を伝える資料です。
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駅弁掛け紙23 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介23回目。今回は、大盛商店の幕の内おべんとうです。
「熊谷 幕の内 おべんとう」「一枚のキップから」と記載され、SLのイラストが描かれています。
下部には「国鉄構内営業中央会々員 熊谷駅 合資会社大盛商店 TEL(21)0999」と記載されています。価格500円。
「一枚のキップから」は、昭和52年1月6日から行われた国鉄の旅行キャンペーンのキャッチフレーズです。国鉄のこのキャンペーンは「ディスカバージャパン:昭和45年10月14日~」→「一枚のキップから:昭和52年1月6日~」→「いい日旅立ち:昭和53年11月4日~」→「振り向けば君がいてーいい日旅立ち・人生その2:昭和55年11月~」→「エキゾチックジャパン:昭和59年~62年」と変化しました。
調整印のスタンプは82212と押されていますが、このスタンプの意味は不明です。キャッチフレーズから、昭和52~53年に製造販売されたものと思われます。
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