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道閑堀開鑿碑(どうかんぼりかいさくひ) [近代]

市内善ケ島にある道閑堀開鑿碑を紹介します。
この碑は、大正8年6月に建てられた、道閑堀開鑿の経緯を記したものです。撰文は埼玉県知事岡田忠彦、書は斎藤豊、石工は伊藤敬助です。
道閑掘は、利根川水系の排水路で、元は葛和田で直接利根川に注いでいましたが、利根川が増水すると排水が困難となり、度々水害が発生していたことから、大正期に排水先を福川へと変更しました。これにより以前使用していた利根川の排水路は埋め戻され、先日紹介した「陣屋橋碑」のみが残りました。
碑文には、「道閑堀は、備前渠から、善島・葛和田・俵瀬を経て利根川に注ぐ水路であるが、水路は曲がり、砂泥のため大雨の度に氾濫していた。大正4年に、道閑堀水利組合は、新たに開渠することを決め、大正6年に工費7,300余円、数千人によって、新たな堀を竣工した。これにより、災害は起こらなくなり収穫は倍増したことから、水利組合員相談の上、この経緯を後世に伝えるためこの碑を建設した。」と記されています。
当時の治水に関する苦労を記録する歴史資料です。
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享保銘波乗弁財天像 [その他]

市内押切の熊谷市指定有形文化財 歴史資料「享保銘波乗弁財天像」を3D化してみました。
この像は、波頭に弁財天が出現する様相を示しており、翻波する波頭に呼応して乱れる瑞雲に、整然と座す姿勢を表しています。八手にはそれぞれ、左手第一手から宝珠、輪宝、弓、財宝を表す蔵の鉤、右手第一手から宝剣、三叉戟、宝棒、縄を持ちます。また、頭上には鳥居や蛇神(宇賀御霊神)を刻み、その上に日輪、月輪を配しており、日・月の持つ恩恵を得て、五穀豊穣を願う村人の願いが込められているものと推測されます。

https://scaniverse.com/scan/wyl6t75n76alp7yk?fbclid=IwAR1wssNh00UPjDvR70WmHXdBdv8YenyWVNfiBgcabtrGBynr6oXMvwBslBA
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東京学芸大学による熊谷市指定有形文化財「木彫大仏坐像」の現地見学 [普及事業]

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 5月24日(水)、東京学芸大学の専任講師で保存科学を専門とする李壃(イ・ガン)先生の授業の一環として、大学で文化財を専攻する学生の皆さんが、熊谷市平戸の市指定有形文化財「木彫大仏坐像」の見学にいらっしゃいました。
 当日は、仏像の修復を担当する吉備文化財修復所の牧野隆夫先生にお越しいただき、仏像の保存修理等についてご講義いただきました。学生の皆さんは真剣な眼差しで、牧野先生のお話に耳を傾け、熱心に質問をしていました。
 新型コロナウイルの影響で、学外での活動を制限されてきた学生の皆さんにとって、実際に文化財保護の現場を見学することは刺激になったようです。
 文化財を修復し、後世に残していくことの意義について、改めて考えさせられる機会となりました。
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陣屋橋碑 [その他]

市内泰地区の泰小学校裏の道閑掘に掛かっていた「陣屋橋」の碑を紹介します。
橋名の陣屋の由来は不明です。
道閑掘は、利根川水系の排水路で、元は葛和田で利根川に注いでいましたが、利根川が増水すると排水が困難であったことから、大正5年~6年に行われた福川の改修に伴って、排水先が福川へと変更しました。現在この石碑付近の掘は埋め戻されており、堀があったことを示す唯一の資料となっています。
この道閑掘には、次のような話が伝わっています。
天喜5年(1057)源頼義が安倍貞任の討伐に東北へ赴く際、この地に立ち寄り、上須戸と日向の間にある龍海沼に大蛇が住み着いて村人が困っていることを聞き、島田大五郎道竿(しまだだいごろうみちたけ)に大蛇退治を命じました。しかし大蛇は深い沼に潜んでいてその姿を見ることもできません。そこで道竿は、利根川まで道竿掘を掘って、沼の水を利根川に流しました。やがて沼が干上がって、大蛇が姿を現すと、道竿は弓を射って大蛇を退治しました。源頼義は、大蛇退治を吉事として、大蛇の潜んでいたところから、東・西・北へ矢を放ち、その矢の落ちたところに八幡宮(現長井神社)を祀ったと伝えられています。
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きかは便郵138 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介138回目。今回は「織物品評会会期中の熊谷町光景」です。
この写真は、前回紹介した大正10年(1921)10月に、市内末広の埼玉県工業試験場と玉井の埼玉県原蚕種製造所の2会場で開催された、全国特産織物品評会会期中の熊谷町中山道の光景を写したものです。
雨上がりに撮影されたもので、傘を手に通りを歩く男性の後ろ姿が写っています。通りの両側には、電柱の間に四本ずつ、紅白の布が巻き付けられた角柱が立てられ、日章旗が掲げられています。左側の電柱には、「冨士森足袋店はこちら」「谷田時計楽器店」(明治43年創業:現・株式会社谷田楽器店)の看板が取り付けられています。
右側手前の商店は絵葉書や写真帳、文房具類を扱っていた小坂藤華堂で、「■■■■ 並ニ印刷エハカキ額縁各種文房具類」「山崎外科医院皮膚病花■病」「藤華堂」の看板が掲げられています。その奥の商店は自転車店と思われ、「二ヶ年間保証書付パ■■ン自転車」の看板が掲げられています。
これは、明治39年(1906)に、鉄砲鍛冶から自転車製造に変遷した日本最古の自転車メーカー宮田製作所(現・ミヤタサイクル株式会社)が、安価なアメリカ製自転車の流入に対抗して販売した、国産のパーソン号自転車の看板と思われます。
ちなみにこの自転車の保証書には「右ハ弊所ノ製品ニシテ其材料ノ精選サレタルハ勿論欧米最新式ノ完全ナル自動製作穖ニ依リ老練ナル技手ノ手ニ製出セラレタルモノナリ弊所ハ此自転車ノ破損ニ對シテハ本日ヨリ起算向フ貮ヶ年間絶對ノ責任ヲ以テ保証仕候也」と記載されていました。
先月号で紹介した緑門とともに、織物品評会開催中の来場者を歓迎する蚕都熊谷の、シティドレッシングの様子を伝える写真です。
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寺内廃寺の遺物整理から―8 「千年の和釘-5」 [整理作業]

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寺内廃寺出土壺金 薬師寺出土壺金

 金堂跡からは特別の金具も見つかっています。四角い窓が開けられた「壺金」と呼ばれる釘の一種とする金具で、仏像を納めた厨子や文庫箱・経箱などの扉の左右に付けられ、四角い孔には鍵を通して使用しました。
 この壺金の大きさからすると,比較的大型の厨子に取り付けられたと考えられます。仏堂跡から発見されることが多く、奈良県薬師寺の発掘調査では大型のものが見つかっています。また、飛鳥寺に接した飛鳥池遺跡は様々な工房群が発見された飛鳥のコンビナートというべき遺跡で、製品の規格を統一するための原型・見本というべき「木型」〔様〕が発見されています。「様」と書いて「ためし」と読み、現在でも生きている言葉です。
 寺内廃寺の厨子には何が入っていたのでしょうか。一つの考えは、銅製光背の破片から想像される小金銅仏で「釈迦誕生仏」などであったのかもしれません。
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駅弁掛紙19 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介19回目。今回は秋山亭の「御寿し」です。
薄赤一色の印刷で、紅白の幕と開花した桜のイラストが描かれています。上中央には「御寿し」「一降り二乗り三発車」、右下の円内には、「名所 熊谷寺西へ八丁 熊谷堤の櫻■木里余に及ぶ 池亭西へ八丁 上忍観音南1里 秩父羽生方面電車接続点」、左下には「お降りの方は お忘れものないやう一駅手前か良御用意を願います」「熊谷驛 秋山」と記されています。
定価は金貮拾銭で、調整印は、(昭和)2.4.13午後六時の印が押されています。枠外下には、鐵道構内営業人組合東京下谷中根岸山水社印行と記されています。
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3D 大我井神社福石 [その他]

市内妻沼の大我井神社境内の福石を3D化してみました。
画像を回転させ、福石の上部をみると、ポットホール状の窪みが数か所確認されることから、この安山岩は、浅間山から墳出後、利根川の中に水没していたことがうかがえます。その後、洪水時に妻沼の地まで流されてきて、祀られた経緯をたどったものと思われます。
*ポットホール:水の流れで窪みにはまった小石が回転して、その力によって削られた鉢状の穴。甌穴(おうけつ)。
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「里帰り!西別府廃寺採取「古瓦」展」2 [展示]

 今回は、先日お知らせしました、この展示のトピックについてお話します。
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 軒丸瓦のうち鏃状蓮弁6葉軒丸瓦は、実は熊谷市の発掘調査では確認されていない、唯一の資料であり、大変貴重なものです。瓦当面の直径が20㎝ほどで、西別府廃寺の他の軒丸瓦が仏教との関連で良く使われる蓮をモチーフとしたものばかりの中、特異な印象を受けます。中央の中房を十字の線で区画し、各々の区画内には各1つの蓮子(れんじ)が配されています。そして、中房からは放射状に鏃状の蓮弁が6枚配され、その各々の間にも先端が小さな鏃状のものが配されています。
 この軒丸瓦は、当時の武蔵国の中心にあった国府(現在の東京都府中市)に隣接して造営された国分僧寺・尼寺(現在の国分寺市)のうち、国分僧寺や周辺地区・周辺遺跡で出土しています。このことは、西別府廃寺と国との関係が濃いものであったことを証明するともいえるでしょう。ちなみに、武蔵国府と西別府廃寺があった幡羅(はら)郡・郡家(ぐうけ、郡役所)は、国分僧寺と尼寺の間にあった、国府から群馬県(上野国)をつなぐ道である東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)を通じてつながっています。
 必見資料ですので、この機会に是非ご覧ください。
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福石由来之碑 [近代]

市内妻沼の大我井神社境内に建てられている「福石由来之碑」を紹介します。
この碑は、碑の脇に祀られている石(安山岩)の由来を記したもので、大正4年に建てられたものです。撰文・書は井田諄です。
碑文には、
『福石由来之碑
敬神尊王帝国大典亦我国民通性也故古今不乏
其事蹟蓋福石玉垣造營其一事也謹按乏由来當
天明二年関東大洪水山霊流下巨石而停字森下
地先人々感尊奇蹟祀神称福石神社爾来霊験不
浅庶民仰徳故官下論告合祀村社大我井神社
是實明治四十二年十月也矣雖然神付臣石徳在
神庭森下荒井氏子寄竊憂逆神慮偶今上陛下行
給即位大禮展大嘗大義哉某等奉祝情不能禁相
諮畫福石玉垣造營以為永久不滅祈念事業是實
可謂教神尊王兩行今竣工記其概要以傳後昆
云爾時 
大正四年星次乙卯十一月也
社掌 橋上福高 篆額
勲八等 井田 諄 謹書』
と記されており、概要は、「天明2年(1782)に関東で大洪水がおこり、森下の地に洪水で巨石が流れてきた。人々はこの奇跡に感じ、神に祀り、福石神社と称して崇めた。明治42年(1909)10月に大我井神社に合祀し、大正4年11月に、玉垣を造営し永久不滅の事業とし、その概要を記した碑を建てた。」です。
天明2年の洪水は記録には無いことから、歓喜院本殿の再建を中断した寛保2年(1742)の大洪水か、天明3年(1783)の浅間山の噴火に伴う利根川河床の上昇を遠因とする天明6年(1786)の洪水の際に、流されてきたものと推測されます。
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