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義民原口与五左エ門 [近世]

江戸時代の飯塚村(現熊谷市飯塚)の名主原口与五左エ門(■-1696)について紹介します。
与五左エ門は、飯塚村の名主の家に生まれました。元禄の頃、農民は、五人組制度や慶安の御触書などの法度によって統制され、年貢の負担に苦しんでいました。
元禄9年(1696)、度重なる水害による農作物の不作のため、与五左ェ門は年貢を軽くしてほしいと、地頭所で強く願い出ました。しかし、地頭の怒りをかい、父子とも処刑され一家は断絶してしまいました。
死後83年後の安永8年(1779)に、村人たちは父子の供養を許されたことにより「郷祖先社宮」として、来迎寺境内に祀りました。現在も8月29日に祭典が行われています。
IMG_3140.JPG来迎寺境内の郷祖先社宮
IMG_3141.JPG郷祖先社宮内部の石祠
IMG_3142.JPG石祠内の石板「安永八年 郷祖先社宮」

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小島上の地蔵さま [近世]

市内小島上廓西の、県道熊谷岡部線脇に建てられている地蔵を紹介します。
この地蔵は、享保7年(1722)に造立されたもので、熊谷宿本町の石工松井清兵衛清昌(生没年不詳:江戸中期)によってつくられたものです。現在市内には、松井清兵衛の手による地蔵が20数体確認されており、その内の一体です。
総高240㎝で、台座正面には「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道」、右側には「享保七壬寅歳 二月吉祥日」、左側には「施主武州大里郡小嶋村中 松井清兵衛清昌作之」と刻まれています。

また、この地蔵の東350m程に所在する地蔵(下の地蔵さま)と次のような話が伝わっています。「昔、酒に酔った者が西と東の地蔵を入れ替えてしまったところ、その年悪病が流行した。そこで村人が地蔵をもとの場所に戻して供養したところ悪病は退散し、もとの平和な村に戻った」

参考
瀧沢健次「小島の二体の地蔵様」『熊谷市郷土文化会誌』第75号 令和元年
IMG_0599.jpegIMG_0604.jpeg

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布施田半蔵 [近世]

近世熊谷宿の布施田半蔵(生没年不詳)を紹介します。
半蔵は、熊谷の草分け六人衆(江戸時代の宿役人)の一人である布施田太郎兵衛の子孫で、熊谷宿で宿屋を営みました。享和2年(1802)には蜀山人が宿泊しており(『壬戌紀行』)、文政8年(1825)には脇本陣をつとめました。
文政10年(1827)刊の『諸国道中商人鑑』に熊谷宿の宿屋として「熊谷宿 御宿泊 江戸より右側 京より左側 布施田半蔵」と紹介されています。
また、秩父の『三峯神社日鑑第六巻』:天保12年(1841)~弘化4年(1850)には、「布施田半蔵方御泊り書状到来、大工政吉、御供二被召連候処、寄居上気之躰二而候処、布施田半蔵御泊り之夜、乱心仕、療治等御加へ被遣候へども、平癒無覚束様子二而・・・」、『三峯神社日鑑第七巻』:弘化5年(1851)~安政3年(1856)には、「中山道、熊ヶ宿布施田半蔵登山」「布施田半蔵下ル」、この他『三峯神社日鑑第八巻・九巻』にも記事が記されており、半蔵が度々三峯神社を訪れていることが記されています。
この他、先祖供養のために、長野善光寺本堂前西の宝篋印塔(安政5年(1858)2月)を有志で奉納し、長野六左衛門とともに名が刻まれています。
十返舎一句の『続膝栗毛』に北八が「ハハアここが布施田だな、これも評判のいいやどだ」と話しています。

参考文献
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎 株式会社国書刊行会
『三峯神社日鑑第六巻』2004 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第七巻』2005 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第八巻』2005 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第九巻』2006 三峯神社社務所
諸国道中商人鑑布施田旅館.png『諸国道中商人鑑』
IMG_9972.jpeg長野善光寺本堂前西の宝篋印塔
5AB432CA-9ED1-409A-A2B3-004CA4B6B2E8-1.jpg「布施田半蔵」
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肥前産京焼写し碗 [近世]

現在出土遺物の整理中の山神遺跡から出土した、近世陶器片を紹介します。
DSCF6265.JPG見込み部楼閣山水文の一部
DSCF6264-2.jpg高台内「清水」刻印
この陶器は、「肥前産京焼写し」と呼ばれ、当時すでに高級喫茶碗としての名声を博していた「京焼」というブランド名を念頭に置き、大量生産よるコピー商品の流通販売を伊万里の陶工およびその管理者が狙った商品です。
コピー商品と言えど、現在のところその出土例は決して多くなく、江戸の大名屋敷クラスで数点~30 点程が出土しているにすぎません。
この「肥前産京焼写し」は、18世紀、伊万里の磁器の窯で焼かれた陶器で、素地は緻密で、卵黄色気味の釉が掛り、内面には呉須(藍色顔料)で楼閣山水文様が描かれています。高台内には「清水」「木下弥」「新」等の印が押されています。 これらの特徴は、それまでの肥前産陶磁器類の製作体系の中には見られない異質なもので、京焼」に類似することから、「京焼写し」と呼ばれています。
写真は、出土土器の見込み部を写したもので、楼閣山水文の一部が描かれています。この楼閣山水文は、当初緻密に描かれていたものが、大量生産に対応するため抽象化していき、18世紀には4段階の変遷が確認されており、本資料は、18世紀後葉に位置付けられます。
コメント 2023-10-03 160154.png18世紀楼閣山水文の変遷
この陶器は、抹茶用の喫茶碗であり、大名屋敷や、禅宗寺院等から出土例が多く、なぜ本遺跡からこのような資料が出土したのか、今後の課題です。
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熊谷市樋春の穴薬師 [近世]

熊谷市樋春の穴薬師を3D化してみました。
奥中央の薬師石像には、寛政九年巳年五月の銘があり、その前の奉納石燈龍には、享保五年十一月(五月)十二日、村中と刻まれています。
この薬師様を通称「穴薬師」と呼んでいます。
この薬師様は目の病気に大変あらたかで、願を掛け、治るとそのお礼として穴のあいた石を奉納したといいます。3D画像を拡大すると、敷かれている石には穴が空いていることがわかります。
大正時代ころには穴薬師講という講が形成されており、その講金で薬師堂の修理もしたといい、大正四年の寄付者名を記した木板が、堂内に残っています。
https://scaniverse.com/scan/vwubuk4cgjxa6gko?fbclid=IwAR0TA1CO5a8AuFLByjKPmF5np2TCRX8AAHXUNVswlaaMJY5ZyOxQelRnSVI
コメント 2023-09-22 082815.png
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一千部供養塔 [近世]

市内中曽根の大日堂内に建てられている一千部供養塔を紹介します。

この供養塔は、明和6年(1769)に塚本武兵衛により、妙法蓮華経などの経典を一千部読誦したことを記念して建てられた供養塔です。。
正面に「一千部供養塔」、右面に「大日如来江 金七両寄進 蘭間代塚本要助 明和六次己丑歳三月吉烏」、左面に「当所願主塚本武兵衛」。台座の3面には、千部供養に参加した76人程の名が刻まれており、最後に、「天水山岸権七」と刻まれています。
山岸権七は、18世紀後半の大里郡屈戸の石工で、石造物に自分の名前を彫る際、「新川天水」「天水川岸」と表記していることから、熊谷市津田新田辺りに住んでいたと推測されています。また、「権七正方」と「権七英正」の2つの名があり、2代続いた石工と考えられています。
現在、権七の作品は、近隣市町に6例程確認されています。
IMG_8452.jpgIMG_8454.jpg
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僧形庚申塔3D化 [近世]

熊谷市西城の長慶寺の、熊谷市指定文化財「僧形庚申塔」を3D化してみました。
この庚申塔は、寛文元年(1661)、他地域の庚申講により建立されたものを現在地に移したと伝えられている。主尊は、僧形の庚申で、上部に二鶏(二羽り鶏)、腰部の左右に二匹の猿が配されている。主尊は一身四臂(四体の腕)で、中央で合掌、他の二臂は剣と三鈷叉を持つ。腰部の左右に二匹の猿が配されている。
https://scaniverse.com/scan/cyvzfngwgebslau5?fbclid=IwAR3SfpulXOPGQWvDLhDoQsOlEYMshv0df6PpRgHDyTmJ4bHXWU4_kjyojhE
コメント 2023-09-12 084120.png
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尾鑿山大権現(おざくさんだいごんげん) [近世]

大里地区高本の和田吉野川左岸堤にある尾鑿山大権現碑を紹介します。
碑表には「尾鑿山大権現」、碑裏には「文久三年 亥四月吉日」と刻まれています。高さ47.5㎝、幅35.5㎝の緑泥石片岩製です。
尾鑿山は、栃木県鹿沼市にある山で、山頂に尾鑿山賀蘇山神社(おざくさんがそやまじんじゃ)が建てられています。
この尾鑿山賀蘇山神社は「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国賀蘇山神社従五位下」と記載された社で、五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰されてきました。
江戸時代後期になると「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より多くの参詣者を迎えました。 
この石碑は、高本地区の人が、尾鑿山賀蘇山神社に詣でたことを記念して文久3年(1863)に建てたもので、大里地区の高本で尾鑿山講が行われていたことを示す資料です。
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野口雪江2 [近世]

野口雪江が詠んだ句を紹介します。笑牛(須賀市左衛門・長栄)、桃路、蘆帆等とコラボしています。

〇「林間に 酒の寒さや 若楓」 
宝暦7年『俳諧川柳』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「鶯の 息あたためる 日のさして」 雪叩
        「首途の酒を 遥々と酔」 桃路
〇「本服は 涼しい月に こちらむき」 雪叩
     「涼しい義理も 廓では有ル」 笑牛 
宝暦8年『俳諧田家の春』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「京を見て 紺屋の助言 おかしがり」 雪叩
     「汚す扇に 名哥覚へる」 執筆  
宝暦9年『春興帖』:『建部綾足全集』第一巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「水鳥の 青きを踏て 柳哉」  蘆帆
     「霞は横に うごく遠山」 雪叩  
〇「唇を うごかすい花に 使はるる」 笑牛
      「交はる蝶に 蜂の和らぎ」 雪叩 
宝暦10年『俳諧 絵の山陰』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「涼しさを 簾のうちへ 汲ンで行 土用に干せば 己も大勢」 
〇「先陣は 袖をかざして 寺子供 殿さまを見る 穴をほしがる」
〇「泉水が 出来て俯く 月に成リ 入院も 娵るやうな 尼御所」
〇「金屏を 昼寝が肥て うるさがり 什物なれど 若衆新らし」
〇「此次は 東海道と 出直さん 峯から見れば 寸馬豆人」 
宝暦10年『俳諧連理香』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「林菁入も 髪ねぢて居る 寒さ哉」
宝暦13年『俳諧 香爐峯』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「折たがる 人へも来たり 花の春」 
〇「鞘あての 出船におほき しぐれ哉」
〇「春(コメ)米夫(ツキ)の 輪回を逃て 十夜哉」
〇「水仙や 靉靆(メガネ)で見ても 発(サイ)たもの」
〇「さはるもの 皆狗骨也 としのくれ」 
宝暦13年『古今俳諧明題集』:『建部綾足全集』第二巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「異見者も 窓は叱らず うめのはな」
宝暦14年『片歌あさふすま』:『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「我宿を 梅ゆ問来て 喚起鳥鳴けり」 
明和2年『春興 かすみをとこ』:『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年
〇「日にちたび 行逢ひながら 猫のこひ」 
明和3年『春興帖』:『建部綾足全集』第三巻:建部綾足著作刊行会:昭和61年

これらの句は、涼袋系俳書『建部綾足全集』に掲載されており、熊谷図書館に所蔵されていますので、興味のある方はご覧ください。
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野口雪江 [近世]

建部涼袋門下で、笑牛や医家の三浦無窮と親交のあった書家で俳人の野口雪江(1731-1799)について紹介します。
享保17年12月7日熊谷(母方の下奈良の栗原家)に生まれ、名は秀航。初号雪叩、別号月樵。諱は實鼎(ほうてい)。熊谷惣鎮守愛宕神社祀官、修験水源山大善院々主。若いころより学問にはげみ、17歳で肥塚の東有隣から経史を学び、18歳の頃江戸に出て、当時名声のあった書家の関思恭に入門し、書道を研鑽しました。草書を得意とし、関思恭門下の書家として、寛政の三名筆といわれました。
俳諧は、建部涼袋、高桑闌更、加舎白雄等に師事し、涼袋系の俳書に多く入集しています。寛政11年(1799)68歳で没しています。
雪江の墓誌には、三浦無窮撰による「文質具(つぶさ)に備わり、知徳両(ふた)つながら修め、花あり実ありて、功業朽ちざらん」と刻まれています。
下の写真は、雪江書の浅草浅草寺本堂外陣の両聯「仏身円満無背相」「十方来人皆対面」と、埼玉県日高市高麗神社第一ノ鳥居扁額「大宮大明神」です。浅草寺の両聯は、寛政9年9月18日に、江戸小舟町佐々木与兵衛の斡旋で、熊谷宿の竹井新右衛門、石川清左衛門、石川藤四郎が世話人となり、雪江の俳友・門人の須賀市左衛門(笑牛)、長島藤右衛門、村岡与一右衛門、板倉長兵衛、大森嘉兵衛、代忠八が発願して奉納したものです。
nogutisekou-4.jpgnogutisekou-4-1.jpg   野口雪江額2.jpg
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