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『千とせのあき』(2) [紀行]

吉見の百穴を訪れた後、小杉榲邨一行は、甲山の根岸家に向かいます。そこで、庭のもみぢや、土器石器の古物を鑑賞します。

(前略)
さて根岸氏いたり着く門前に、氏は待むかへて、広間に請し入れらる。其席の装飾ほどほどにしつらはれたるも、ことに庭苑の紅葉は、けふを盛りと染め出たる、何ともいひ難きを、しばし茶菓の設け一巡了りて、やがて木のもとに立より給ふ、まづ東久世君、
「かひがねは初雪白く尋ねこし里のもみぢはさかりなれども」
「松風にうき世の塵やはらふらんまばゆきばかりてる紅葉かな」

松浦君、
「世につくす君が心のいろ見えて、一しほあかき庭もみぢかな」
「松が枝にまじるかへでのもみぢして青地の錦さらす庭かな」

長岡君、
「この宿のこきくれないにくらぶればよそのもみぢは色なかりけり」

蜂須賀君、
「たづね来しよし見の里のもみぢ葉のこぞめの色は冬ものとけし」

榲邨も、
「あかなくにをしも見つつ此宿の盛りのもみぢこがれこがれて」
「さかき岡常葉のかげにまじりてぞ色もよし見の庭のもみぢ葉」

井上君、
「さかりなる宿のもみぢ葉一葉たにひろひて我は家づとにせん」
「いろかへぬ松の木の間に植ませし紅葉は久に盛見すらん」

それより離れ家の古物陳列場なる稽照館に、一同いたり給ひて、くさぐさの上古物、石属玉器土偶土器金属類、世間にまれなる数百点を縦覧し給ふ、この室内には、かの百穴、また冑山の古墳を始めて、ここの近傍より発見の、石玉土金属類の奇珍も多く見ゆ、さて庭づたひに、もとの席に着き給ふ、苑内に石剣石船などあざなす古器のいと大きなるを置すえたる、みな驚かれぬ、なほ石剣の大なるもの、床の間にも見えたり、これみな本国にて発見せしものなりといふ。また故三篠公の額字をかかげたる、その緑苔絶塵とあるこころを、松浦君また、
「こけ青くちりにけがれぬ此庭のもみぢの色は世に似ざりけり」

東久世君もまた、
「緑苔絶塵点 棲鳥有清音 霜落知多少 錦楓紅浅深」

この時、津軽君追すがいて来り給ひて取りあへずも、
「とき葉木に枝をかはして染つくす庭のもみぢは今さかりなり」
「此やどのもみぢ深くも染なして庭はにしきになりにける哉」

かくて晝食をあるじす、荒川の鮎のなますあつものなど、所からめでたし、酒饌たけなはならむとする時、諏訪君来り給ふ、なほ取あへず。
「とひ来れば今を盛にそめ出ていろもよし見のさとのもみぢ葉」
「ときはなる松の木間にまじりてぞことさらあかき庭のもみぢ葉」

おくれて来つるよしを人々のいはるるに、また、
「さらぬたにおくれてとへる我顔にてるもみぢ葉の色ぞまはゆき」
「はつ霜のおくれてとへとももみぢ葉のあかきこころはあにおくれめや」

武香氏、伴七氏も、ここさらず終始まかなひ、酒饌いとよくすすめなどしつつ、武香氏、
「あなうれし高くたふときまれ人のもみぢの錦きて見ますとは」
「としごとにひとます君のひかりにいろこそまされ庭のもみぢ葉」
「ことしまた来て見ますべくまつ蔭のもみぢ一きは色はえにけり」

同し妻直子も、
「かみな月小春おほゆるのどけさにみやこの人もとひ来ましけり」
「ふりはへてとぶらひまししあて人にもてなしもあらず山里にして」
「山里はささぐるものなかりけり心のどかに一日あそびませ」

この間に、筆硯を弄し書画の合作あり、囲碁のいどみなど、いと風流の歓をつくす、井上君、
「もみぢ葉の大さかづきにえひにけり園のあるじのなさけくみつつ」

長岡君
「欣君慕古有高風 主客相□杯酒中 秋興多時詩興好 満堂裁句艶於楓」

またあるじの心づきにて、庭のもみぢ葉を絹にうちつけて、諸君の家づとの料にとものせさするを、東久世君、
「しづがうつきぬたならねどつちの音もけふのあそびの一なりけり」

また広田華洲が何くれと書がきて、人々讃しつるうちに、土偶にもみぢの折枝をあしらひそへたるに、東久世君、
「ものいはばはにはにとはんかぶと山むかしもかくや秋のもみぢ葉」

このほかのもの、さのみはとてみなはぶく、なほ後園うちめぐらんとてものし給ふに、此地は石器時代の遺跡にして、石器、土器の破片、ここかしこに散布す。またそこに丘あり、池あり、あづまやなどしつひものしたる、所々の命名、あるじのこひたるに、それよけむ、これいかがなど、かたみにゆづりてきはやかならず、よくかたらひてなど、其名つくる事はあとにのこしつつ、冑山神社に詣て給ふ。ここは兂邪志國造兄多毛比命の奥つきなり、高さ五丈ばかり、めぐり百六七十間、三段にたたみあぐるが如き形状なれば、このかぶと山という名も起りしなるべし。まづ松浦君、
「かぶと山もみぢの色は緋おとしのよろいかざると思ひけるかな」

長岡君
「もののふのあかき心にてらされて木々のいろよきなぶと山かな」

井上君
「ひおとしのかぶと山ともいひつべき色にひほへる木々のもみぢ葉」

榲邨
「かぶと山きつつぬぬかづくわが袖にちりかかる木の葉ぬさとたむけん」

なほ此山めぐりして、うけらが花、りうたむなど手をりつつ、もと来し家にかへりものするに、日漸くかたぶきぬれば、津軽君、
「夕日かけななめにさしてあかぬめのまばゆきまでにてるもみちかな」

長岡君もまた、
「蒼然暮色自西来 更愛紅楓映碧苔 仙客圍棋且把蓋 隔京雖遠醉忘回」

榲邨もなほあきたらで、
「庭もみぢ夕ぐれないになりぬれどあかぬ錦をきてたびねぜむ」

また、晩餐の設けいとねんごろに、頻に盃をすすめて、夜に入る。七時ごろ暇をつけてたちかわれ給ふ、このかへさには、熊谷驛より汽車にのらんとして、例の腕車を駆りていそがすに、荒川をわたる時、諏訪君、
「日はくれて水の音すごきあら川のはしもとどろにわたるもろ人」

程なくも熊谷に着ぬ、三十分ばかりも待あへるに、けさ驛々の歌よみ給ひし定にて、この驛を諏訪君、
「くまがやのはてなし堤はてもなく人めはかれてさびしかりけり」

など口すさび給ひつつうち乗る、伴七氏、及び本郡長代理根岸千引も見送り奉る。すみやかに発車するに、けさ龍蔵に聞残されたる台湾の新聞を、何くれつづかするに、かの新高山にのぼりて実際を探り、自身最も苦辛を感しつる事どもなどこまかに問答するにいとめづらし。又吹上驛を津軽君、
「ちちふねは初雪ふれりこの朝けさむくも風のふきあげの里」

なほこの少時間の車中にして、かの百穴の実に不可思議なることにも及ぶに就て、立かへりて今少し前年のしらべ越したる一端をいはんに、その穴の所在地黒岩、北吉見ともに、明治十年十一月、根岸氏を始て有志家これを掘り増し、同年十一月に博物館よりも検査せしよしなるが、是をおほやけに調査して、追々と今の如くに夥多の数を露出するにいたりしは、二十年八月このかた、帝国大学の費用支出をもて、前にいふが如く、坪井氏はじめの功労によれるものなりけり。あなあやし、あなめづらし、あな夥しといはんもおろかなりや。かくとりどりの談話にうちまぎらかされて、いつのほどにか上野の停車場にかへりつきぬ。かくて七たりの君たちは、おのおの別れをつげて立ちかへらせ給ふ。けさあり明月の影ふみて、ここにものしぬるを、なほこの夜半ちかく帰り来て思へば、げに短きころはひとはいへと、のどかに遊び暮らしたるがいとうれしくて、
「けふ一日むかしの蹟をふみ見ればちとせの秋の心地こそすれ」

などつぶやきつつ、鳥居にも立わかれぬ、さてかうありし事どもを紀念につまじるしはべりて、七たりの君またあるじ氏にも見せ奉らんに、この記事の名なくてやはとて、をこがましくも、この一句をやがて名におほせつつ、清書ものするは、明治三十三年十二月のはじめつかた、小杉榲邨。

下の写真は、熊谷市指定有形文化財 建造物「根岸家長屋門」
p050.jpg

【参考・引用文献】
『千とせのあき』明治34年 小杉榲邨 国立国会図書館冑山文庫(請求記号187-177)
「好古家根岸武香の文化活動とその交友―小杉榲邨手記『千とせのあき』からー」『熊谷市史研究 第11号』新井端 平成31年 熊谷市教育委員会 

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『千とせのあき』(1) [紀行]

国学者の小杉榲邨(こすぎすぎむら:1835-1910)は、明治33年11月19日、冑山の根岸武香(1839-1902)の誘いにより、東京から、比企郡西吉見村(現・吉見町)の百穴と、大里郡吉見村冑山(現・熊谷市)の根岸家を訪れており、その際の記録を『千とせのあき』:明治34年刊に残しています。
同行者は、蜂須賀茂韶(1846-1918:はちすかもちあき:侯爵、フランス公使、東京府知事、貴族院議長)、東久世通禧(1834-1912:ひがしくぜみちとみ:伯爵・神奈川県知事・茶人)、津軽承昭(1840-1916:つがるつぐあきら:侯爵、津軽藩主、歌人)、松浦詮(1840-1908:まつうらあきら:伯爵・平戸藩主、茶人)、長岡護美(1842-1906:ながおかもりよし:子爵・外交官)、諏訪忠元(1870-1941:すわただもと:子爵、歌人、茶人)、井上勝(1843-1916:鉄道局長)、鳥居龍蔵(1870-1953:とりいりゅうぞう:人類学者、考古学者)。
上野からの車中、百穴、根岸家で、多くの句を残していますので紹介します。


(前略)
「今この武蔵國に名高き、北吉見の百穴とあざなする幾多の横穴あり、實に一奇跡を極めたれば、これを探りこれを点検しつつ、何くれと評論する人、ますます多く出来るにあはせて、此在地を所有する、根岸武香氏うながし出て、わが庭苑の紅楓をも見がてらになど、色に出てそそのかさるるに、それいとよけむ、其のもみぢも賞しつつ、一日の漫遊を試みむと語らひかはし給ふかたがたは、侯爵蜂須賀正二位、伯爵東久世正二位、伯爵津軽従二位、伯爵松浦従二位、子爵長岡正三位、子爵諏訪正五位、井上従三位の諸君にして、恰もよしことし十一月十九日、霜晴に乗して出立給ふ、(中略)

図らずも前夜鳥居龍蔵の、榲邨がりとふらひ来しからに、よきをりなりとて、龍蔵は榲邨いざなひものす。そもそも此百穴といふものの、一奇観地は、今は埼玉縣比企郡松山町の東に方り西吉見村大字北吉見に在りて、松山城址の麓なり。また根岸氏の本宅は、大里郡吉見村冑山といふ地にあれば、この一奇蹟とは凡一里餘隔たれり。さてこの一奇蹟を探らんには、上野より汽車に乗し、鴻の巣の驛に達し、そこより下車して松山に至るを順路なりとす。されば此漫遊よろづの事は、根岸氏紹介せんと契りおきて、その期日を待しに、この日や風もなく、いとのどけき小春の時を得がほの天気にして、午前六時前までに上野停車場にうち揃ひ、さて六時第一列車に発程し給ふ。根岸の子息伴七氏、御むかひながらにとて、早くもここに出張し、一行とともに時間遅しとうち乗る、津軽、諏訪の両君は、次の発車にものし給ふ定なり。然ありて後、汽車ははしり出ゆくに、車中の御つれづれさましは、例の御口すさびに、今経過しつつゆく驛々の名を題にものしてむと、議決せられつるもいと興あり、さればとて、榲邨まつ戯れに、
「われはけさいつつつくづく音さえし鐘のうへ野を踏つつぞ来し」

といふ、次に長岡君、
「末とほき田はたの稲のほがらかにげにも黄ばめる朝つく日かな」

と詠し給ふを、黄ばめる日といふには、必子細あるならんとて、松浦君しきりに戯れかかり給ふ、またをかし。次に東久世君、ふとことに紙に鉛筆して
「観楓途上、毎驛命名車上戯作、
残月一痕橋畔霜、観楓今日卜晴光、車丁開戸呼王子、便是停車第二場」

井上君、いとはやりかに王子のこころを、
「扇屋によらんとすれど湯気立る車はやくもめぐり過ぎゆく」

次に東久世君、また、
「蔦楓かきはじははそもろもろのにしきの色もあかばねの里」

何となくうち見出して、榲邨、
「あら川の浪の上の霜と見るばかり水の気白し橋の見わたし」

長岡君も同じく、
「川そいの堤へだてて白鷺のゆくと見えしは帆かけなりけり」

次に東久世君。
「けふ更に色こかるらむわらびたく賤が住かの軒のもみぢ葉」

次に蜂須賀君、
「ありあけの月にみやこを立出てうらわのさとに朝日にほへり」
「桑畑も麦生も霜のけぶるなりうらわのさとの冬のあけぼの」

次に井上君、
「ひつち田の稲づか白く霜見えてあさ風さむし大みやのさと」
「過し夏ほたる狩せし大宮のさとわも今は霜がれにけり」
「大宮のさとわさびしく霜がれぬ藤の戸とはん人もなからむ」

次に榲邨、
「走り来てはやも着むと車荷をあけをのうまや人さわぐなり」

次に松浦君、
「木がらしの吹あつめたるもみぢ葉のこほりくむなり桶がはの水」

次に東久世君、
「桑畦の霜気のけぶりたちかすみあさ日にほへり鴻の巣のさと」
など

(中略)
さてこの百穴といふ洞穴を、松山道より遠く望むに、裸山のかたくづれせしが如く見ゆる所に、黒點数十をうちしやうに見えわたれるが、即ちこの横穴なり。実に奇観とも不思議とも、いふべかざるものならん、松浦君は、廿八年の五月にものし給ひ、長岡君もをとつ年ものし給ひし事、上にいふが如く、そのをり榲邨は秋の一夜といふ一冊子をしるしよく心得をれるを、始めて目撃し給ふ諸君は、あはやと驚き見給ふもことわりなり。又一丁許こなたに岩窟ありて、観世音をまつれり、なほ此いはやも百穴同質の凝灰岩なり、さて百穴の前なる一楼屋に入らむとするほど、大澤藤助待むかへ奉り、即ちその一楼の千古観といふにあないし、ここにて一まづやすらひ給ふ、松山警察署詰の警部某々等も訪来ぬ、この楼上にて茶菓の設けありて、さて横穴をゆるやかに観覧し給はんとす。そもそも洞穴をいまに百穴といふは、むかしよりの総称にして、人々出張しつつ所々発掘せしからに、現在に見認るもの二百三十七穴あり、そのむかしは二十ばかりあらはれ居たりしとなり。博士追すがひて其二百三十七発掘せし時、戯れに、
これはこれはとばかりあなの吉見山とうたひしとなむ、榲邨もをとつ年、はじめてこれを見て驚きつつ、良き人のよしと吉見のよこ穴は横見のさとに横山のさとに横山なせり。と戯れたりき、けふ東久世君、
「まつ山のくしき岩むろいつの代に誰がつくりけんくしき岩室」

蜂須賀君、
「めづらしと世々に伝へん松山の松にちぎりてくちぬいはやは」
「うづもれし百のいは室ほり出てむかしのさまを見るぞかしこき」

井上君、
「蓮の実の穴かとばかりみゆるかなあまたつくりし山の石室」

下の写真は大正期に発売された吉見百穴の絵葉書
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魂膽夢助譚(こんたんゆめすけばなし) [紀行]

弘化4年(1847)に、一筆庵主人が書いた『魂膽夢助譚』(こんたんゆめすけばなし)で熊谷の様子が書かれていますので紹介します。
概要:夢輔という怠け者が、金に不自由なく、長生きして遊んで暮らすには、信心願かけでご利益を得るのが近道と考え、七福神の中でも一番暇そうな福禄寿にお願いした。すると福禄寿から、ある生き物をみつめて呪文を唱えると、その生き物と魂が入れ替わるという術を伝授された。
ある時、夢輔と粟九郎は、叔母の遺金二百両を貰うために、上州二連木に向けて出立する。板橋の宿より中山道を通って上州に至る途中、熊谷に立ち寄っています。

「夢輔譚 五編 下の巻」
(前略)
ゆめ「ここが久下村といふ所で、茶漬の名物だ。
あは「酒のいい所で、一口呑で急ふ。
ゆめ「それじやア熊谷の和泉やだト。
二人は道をいそぎしかば、ほどなくくまがやへの宿にいたり、いづみやにてそこそこに酒をのみ、蓮生寺もけへりに参けいせんと、心いそがはしく、此宿も通りすぎ、はやくも駕原の立場にいたる。この所は、熊谷、深谷の間にて、しがらきといふ立場茶やは牛蒡(ごぼう)のめいぶつ也。殊に自製の茶は当所の水にあひて風味よく、旅人茶をもとめていへづとになす。銘をしがらきとよべり。煮花に牛蒡ふたきれにて、茶づけめしを売といへども、其繁昌は中山道第一の立場にて、旅人ここにあらそひ休みこんさつす。
ゆめ「ここで飯を喰て行ふ。
あは「なんだ茶漬か。
ゆめ「ムム酒も肴も銭さへ出せばお望次第ヨト。
こしをかける。女茶を持くる。
あは「酒なしの飯がいい。
ゆめ「わるツくツても仕かたがねへト。
いふ内二人まへ茶づけを持てくる。二人はまじめにめしをくひ、
ゆめ「どうも茶はよつぼどいいぜ。
あは「山本山でも怊(かな)はねエなアト。
茶づけをくひながら、
「熊谷の和泉やも酒はいいが、夕べの吹上の酒はよツぽどよかった。
ゆめ「そのはづだア。壱両壱分取れたものを惚きって夜這に行ほどだから、能なくつちやア妻らねエ。
(後略)

*立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にあって、旅人が休息する場所の事で、熊谷宿と深谷宿の間の籠原に、牛蒡と茶漬けが名物の「しがらき」という店があった。竹野半兵衛1827年著の中山道の商業名鑑『諸国道中商人鑑』に、この「しがらき」が絵入りで紹介されている(下写真)。
*作者の「一筆葊」とは、「岐阻道中熊谷宿八丁堤景」を描いた、絵師で文筆家の溪斎英泉の亭号

参考
『魂膽夢助譚』横山芳郎 平成8年 ㈱考古堂書店

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竹野半兵衛1827年『諸国道中商人鑑』
「志がらきノ笹屋源蔵」
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秋の一日(6) [紀行]

秋の一日、茸狩りを行った一行の俳句を紹介します。掲載されている句は、ホトトギス吟行会の松藤夏山(1890-1936)、青邨(1892-1988)、三七、たけし(1889-1974)、一水、熊谷の俳人雄美、一路(1888-1963)、一宿(1896-1973)、迂呆(1861-1942)、孤童、秋紅、浩波(1878-1965)です。

「その日の俳句」

秋山に案内されたる句會なか 夏山
高草を茸捧げて潜りけり 雄美
撰りのけし毒茸縁に影投げて 一路
菌撰るほとりの縁に立ち話す 一宿
濫伐の小さき雑木や秋の山 迂呆
此國の人の取らざる菌かな ゝ石
裾を走る馬車を遥かに菌山 孤童
茸狩やしばしが程のざんざめき 青邨
茸狩の一人でありし土産かな 三七
蔦走る松の大樹や秋の山 秋紅
萓きずのつきし手首や菌狩 浩波
いち早く見つけし茸にたかりより たけし
毒茸や露の落葉を支えつつ 一水

引用文献
「秋の一日」『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社
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秋の一日(5) [紀行]

「秋の一日」:晩餐会 岡野孤童:『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催した後、一行は荒川の熊谷堤に出て月を見上げながら、料理屋魚勝へ向かいます。記述は、岡野孤童。

「星溪園の句会は終わった。一行の帰られる時間は八時二十五分と決つて居た。時間は猶二時間ばかりあつた。私自身としては折角先生の御来車の折であるから勝手に機能ではあるけれ共、たとへ十分なり二十分なり、選句の御講評、又他の俳論を御伺ひしたかつたのであるが、櫻堤をブラブラしたいといふ事になつて惜しい乍らも希望はあきらめ兎も角も櫻堤に上がった。暮れて一旦暗かつた處へ十四日の月が登り始めて、通りの電燈に交つた其の明りが、遠く隔つた灰色の秩父連山に対照して言ふに言はれないいい景色であつた。
「なる程いいですなあ。」一行中の誰かが言つた。
「花の咲く時分だとほんたうにいいんですがね」と一路君が其の頃の事を話した。
「併しめずらしい堤ですなあ」
「何しろ三十丁ばかり続いて居るんですからねえ、それが一時に花を咲かすのですから賑やかなことですよ、その時は又どうぞお越し下さい。」「ええありがたう」などと言つて居る中に五六丁歩つてしまつた。
「先生発車まで大分時間がありますから、一寸晩飯をやらうぢやありませんか。」といふ話がまとまつて一路君を先頭に魚勝に着いた。
 此處も星溪園の様な泉の湧く池があつて、其の池を遶つて座敷が並んでいる。
「温亭先生や土上の連中が大勢来たといふのは此處ですか。」一水さんが聞いた。
「ええさうです」一水さんが廊下に出て手を叩く。鯉が沢山集つてくる。大勢して其の池を見る。熊谷は非常に水に富んだ處で、井戸を掘る事など実に容易であるといふ事などが話された。
 今日はめづらしく客がなくて静かだ。
 私達は正面の一番大きな部屋に陣どつた。此處でたけし先生から私達の句につき色々と説明して戴いた。交代に入浴にゆく、其の中に酒がくる、肴がくる。
 一路君が立つたり跼んだりして女中に世話をやいて居る。一同は大食卓を囲んで坐る。
 此處で晝間は居らなかつた当地の町会議員で舊派の俳人である、凡骨宗匠もちゃつて来た。近頃ホトトギスを読んで勉強しているといふ。さかんに飲み始めた、さかんに食い出した。先生が山に入る時ゲートルが巻けないで巻いてあげた事や初茸だと思つてとつて来たのが油茸で食べると死んでしまうなどと言はれて驚いた事や、一番槍だの一番首だのといつて茸をとつて歩いた事や、ゝ石君があちから車でひよくりと山へ駆けつけた事や、案内者が土もぐりといふ茸をとつた事や、獅子茸がどうしたの、天狗茸はきびが悪いの、布引茸なんて面白い名前だの、自分がはじめ初めて茸狩をした連中が多いので、其の時の事を思ひだしては面白く話す。話は尽きなかった。
 一路君が一同に長瀞行をすすめる。煤六、夏山、青邨、三七の諸君はどうすすめても帰る事となつた。秋紅君は妻君が行田の病院へ入院しているのでといつて一行と共に汽車に乗つた。
諸君を見送つて行つた驛で中西の露翠君、竹聲君、星畔君に会つた。天候の加減をして当地の句会に間に合わなかつたのを気の毒に思つた。たけし先生にお会ひして帰つたら如何ですかと言つたが作句を私に預けて帰つて行つた。一行をを送つた私と一宿君とは再び魚勝へ引返した。」

下の写真は、大正時代に発行された絵葉書「魚勝の大広間」です。
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秋の一日(4) [紀行]

「秋の一日」:熊谷の月 夏山::『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催した後、一行は荒川の熊谷堤に出て月を見上げながら、料理屋魚勝へ向かいます。記述は、ホトトギス吟行会の松藤夏山(1890-1936)。

「句会が済んだ時はすつかり夜になつていた。会の為に使ひ等して呉れていた少年が「月が出ました」と知らせに来た。二三人縁側に出たが庭木の陰になつて見えない。「此所からは見えません」と少年がいふ。
 短冊を書いたり後片付けをしている人々を残して外に出る。晝間皆を喜ばせた庭の清冽な泉は闇の中に湛へていた。門を出る。いい月だ。十四日の月である。両側にずつと軒燈の点いた街道の丁度真上に上つて居る。赤味を帯びて少し潤んだやうに見えた。
「いい月だな」と口々にいふ。今朝の天候からして期待しなかった月とて皆の喜びは殊更であつた。
暫くして話しながら門の中から出て来た人が「こちらに行きませう、堤の一番端に出て歩いた方がいいでせう」と云って先に立つ。月の照らさない狭い路地を一列になつて歩く。時々家の中から灯が洩れて目を射る。僅か一丁位で熊谷堤へ出た。
堤の櫻樹には葉は一枚もなかつた。櫻の落葉は早いものだと思ふ。
この堤は葉櫻の頃一度来た事があるので珍しくはなかつたが、月の裸木の堤をぶらつくのはいい気持ちだ。
一帯に薄い夜霧がかけている。右手の田圃は限界をぼかして夢のやう、左には熊谷の町が眠ったやうに灯つていた。
我等は三人五人と話しながら月の堤をゆつくり歩いた。月も櫻の枯枝を移つて行く。
六時何分かの上り列車が着きの前を通つた。後ろは又静かさに帰る。
長い堤が盡きた。堤を下りて一同は魚勝といふ料理屋に晩飯を食べに入った。その家の上り口で長靴を抜いでいると「危なく皆を見失ふ所であつたが丁度あなたに出逢つてよかつた」等話しながら一水さんが土地の人孤童さんか誰かと這入つて来られた。」

下の写真は、大正期の石上寺南側の荒川桜堤を写した絵葉書です。
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秋の一日(3) [紀行]

「秋の一日」:星溪園句會 江口哠波::『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

ホトトギス吟行会が、福田村できのこ狩りをした後、星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催しています。記述は、熊谷の俳人江口哠波(1878-0965)です。

「帰途土塩の別れ道で山案内の神山氏に別れて自動車が来ないから一行はぽつぽつ歩き出した。爪先昇りの人家のある處で漸く迎への自動車が来た。後れ馳せの煤六さんがそれに乗り込んで居られた。一臺では乗れきれない。丁度たけし先生は歩く方が面白いと仰しやる。其處で一宿、一路、孤童の三氏は句会の仕度があるので一足先に自動車で帰る事になる。外に東京の二方も乗り込まれる。たけし先生と煤六さん其他の方々と私の七人が又ぽつぽつと歩き始めた。野原村を経て村岡の稲田を通ると吾等の一団に驚いてか一群の稲雀が舞ひ上る。たけし先生があれ稲雀がとおつしやる。私は何か句が出来さうに考えた。村岡の酒屋の處で二度目の迎への自動車が漸くに来た。自動車を急がせて四時半頃星溪園に着いた。園は土地の舊家竹井氏の別邸で泉の湧く大きな池を控へ数寄をこらした建築で仲々幽雅の仙境である。たけし先生には曾てほととぎす社の太田、熊谷地方吟行の折に虚子先生と同行で立寄れた事のある處で深く印象の残られてある處だとの事である。留守居の中川迂呆老人は古くからの俳人であって、迂呆さんの好意で句会の場所に借りたのである。設けの座敷に通ると先着の人達によって句会の仕度が出来て居た。先生の出題茸と秋山の互選が始まる。披構された時分には既に日はどつぷり暮れて鏡の様な月が泉の空にかかって居た。そして六時頃この星溪園を辞して道を月の櫻堤に出た」

下の写真は、大正期の絵葉書で、星溪園の池と建物が写されています。
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『秋の一日』(2) [紀行]

「秋の一日 熊谷へ」 山口青邨:『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

ホトトギス吟行会が、福田村できのこ狩りに行く際、熊谷駅から車2台に分乗して向かいますが、通り道、野原の文殊寺に寄ります。そして福田村できのこ狩りをした後、一行は、星溪園で句会を催し、魚勝で宴会をおこないました。前回は、ホトトギス吟行会を迎える熊谷の側(田島一宿)の記載でしたが、今回はホトトギス吟行会側(山口青邨)の文章です。

(前略)
「荒川の鉄橋を渡ればもう十里の稲田である。実りに実った穂を垂れて、案山子の姿も此頃は、洋服にカンカン帽子、蕎麦の花も雨の空にはカラッとせず、腐った南瓜もそれと見極めないうちに過ぎ、薄の岡、柿の家、穂の草の原、家鴨の溜池など見送るほどに熊谷に着いて了った。驛には初めてお目にかかる方々のお出迎へ、驛前の弁当屋のテーブルにひとまづ腰かける、「何しろこの雨でせう、今日はとてもお見えになるまいと思って居りました」「ほんとに生憎の雨で、まだまだ来る筈だったんですが」「私の方でも方々に通知は出してあるんでして、て天気なら無論沢山来るのでしたが」「茸山の方は実は昨日わざわざ行って見て来てありますんで、初茸には少し遅い様です」「なアに香さへかげばもう満足です」こんな会話。九時五十分着の汽車も待ったが誰も見えない。それで愈々茸山に行くことにする、雨は霽れて時々明るい日射さへ見せた、これぢゃ愈々天気になると一同大いに喜ぶ、二臺の自動車に分乗して田圃を走る、帆が下りているので外はさっぱりわからない。途中車を停めて文珠様に詣る、この邊での賑やかな縁日のある所なさうだ、また馳る、大きなお百姓屋に到着する、ここの主人が山の案内をされるのださうだ、みんな山に入る仕度をする、羽織を脱ぐ人、袴を
とる人、足駄を足袋に穿き代へる人、ゲートルを捲く人、弁当包を背負ふ人、正宗の一升瓶を下げる人。」(中略)「直「ぐとつつきの處の岡に祠がある、一枚の大岩から出来てる岡だ、上り口に階段のないのが珍しい、滑るのを怖々上がる、この邊一帯に松林で、初茸がありさうだなと思って見ると直ぐ見つかる、たうとう吾輩が一番槍を入れて了った、そこを下りて又別の山に入る。「あったあった是は何といふ茸でせう」「是は初茸ですか」「それは毒茸です」「では是はどうです」「ああそれは青獅子といふ奴です」「食べられますか」「これは何でせう」「それは白天狗です」「之は」「土もぐりです」「おーいみんあな集まれ、茸の標本を見せてやる」「みんな見てからとるんだ」こんあ騒ぎをして又山を一つ越える」
(中略)山に入る時「茸狩(茸とも)」「秋の山」を提出されたのであったが、作句の方はすっかりお留守になって了っている。午少し過ぎて、みすぼらしい鉱泉宿に着く、そこへ、ゝ石さんがほっこり現れる、賑やかになる、携へた正宗に景気をつけて弁当を開く。ここを立ってまた田圃道を歩く、空は愈々晴れて柿の色が美しい、群雀が田から田へと渡る。「茸」も「秋の山」もまだまとまらない、途中で熊谷からの迎への自動車に出会うふ、そこで、一路さん、一宿さん、孤童さん、夏山さん、ゝ石さん、一水さんは先に会場の方へ行く、先生、煤六さん、雄美さん、浩波さん、秋紅さん、三七君、私は次の自動車の来るまでぽつぽつ歩くことにする、(中略)第二の自動車に乗って会場たる池亭星溪園に着く、水清かにして玻瑠の如く、鯉魚さながらに「遊魚之圖」の如しだ、樹木は古りて蘚苔青く誰か紅葉を焚く人はないかと言い度くなる。「もう締め切りますよ」先生の亭から呼ぶ聲、四阿に居た私はまだ四苦八苦の處。それからみんな集まって披講をする、もう夜である、電燈が灯る。ここをひき上げて直ぐ側から続く堤の上を
歩く、櫻樹すでに悉く落葉して折からの明月は盆の様に皓い、堤を下りて踏切を越えて町に入れば、ここは狹斜の巷である、俳人をとっつかまへて「寄っていらっしゃい」はおかしい。それから料亭魚勝に入り池水に動く月光を眺めつつ杯を重ねるうち、美人なども見え話もはづみ、歓談時の移るを知らず、時に一路さんの緊急動議「之から秩父長瀞に行かうぢゃありませんか」と、ついに先生、一水さん、ゝ石さんが行くこととなりあとに残る。ほかの四人はここに一日の行楽を感謝して、九時七分帰京の途に就く、心づくしの茸の苞を抱えて秩父赤壁の清遊は夢に載せて、うちらうちらと車窓に舟を漕ぐ。

下の写真は、大正時代の文殊寺門前の様子を写した絵葉書です。
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『秋の一日』(1) [紀行]

大正13年10月、ホトトギス吟行会は、福田村(現滑川町)できのこ狩りをするために、熊谷駅前の秋山亭に立ち寄ります。ホトトギス吟行会一行は、山口青邨(1892-1988)、一水、池内たけし(1889-1974)、夏山、三七、これを迎える熊谷の俳人は、田島一宿(1896-1973)、江口哠波(1878-1965)、古山秋紅、雄美、岡野孤童、中川迂呆(1861-1942)、柿原一路(1888-1963)です。駅前の秋山亭で待ち合わせ、車2台に分乗し、途中文珠寺に立ち寄り、福田の山に向かいます。茸狩りを楽しんだ一行は、熊谷の星溪園に立ち寄り句会を催し、その後魚勝で宴会を催しました。
以下にその概要を紹介します。

「秋の一日 一行を迎へて 田島一宿」『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社
(前略)
「驛前の茶店、秋山亭には昨夜浩波老人の手に書かれた「ホトトギス茸狩吟行會休憩所」の看板が雨の簷端に立てかけてある。念のため誰か来て居るかと、聞けば誰も居らぬといふ。
すでに一行の列車が着く、九時一分である。浩波老も私も、まだホトトギス社の方々は勿論東京の俳人の顔は少しも知らない。浩波老と私とは出口両側に分かれて、今此口からはき出される一人一人に、若しやそれらしい方は無いかと、穴のあく程にらんだ。人々は皆けげんな顔をして私等見てゆく。然も更にそれらしい人影は見当らぬ。殆ど最後ともいふべき時に、五人程かたまって出た方があった。何れもインバネスに袴といつた様な出立で別に今日の茸狩に参加するものとは見えないが、其内に長靴を穿いた一人が居た。若しやこの五人連れがそれではないかしら、ままよ■■■めつぽうに当たって聞けと、其等の人の後ろを追った。「若しや貴君方は、ホトトギスの肩ではありませんか」と聞く、「さうです。あちらがたけし先生です」と云はれた。併し其あちらなるものが私達にはわからない。其處でやうやく一行の方に挨拶もすんで一たん一行を秋山亭へ案内した。
 次の列車で花蓑氏其他の方々が来られるかもしれぬとの事で、一列車待って、出迎へてみたが更にその様子がなかった。が意外にも羽生から古山秋紅君が雄美老人同伴で来られたのは、實に嬉しかった。
 此處で一行はたけし先生の他一水、青邨、夏山、三七君等の五人に秋紅、雄美の両君とわが吟社の四人を合して都合十一人となった。ことごとく旅装を整へ豫て用意の二臺の自動車に分乗して目的地なる福田村へと向かった。天祐にもさしもの悪い雲行も徐々に変わって来て、かすかながらも日差しが洩れて来た。一行の顔には自ら歓喜の色が見えて来た。私は心ひそかに心から空を仰いで感謝した。」
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昭和5年頃の熊谷駅前:駅弁を販売していた秋山亭と清水屋が駅前に店を出していた。


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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記5 [紀行]

池亭を後にした虚子一行は、櫻雲閣を訪れ、「燕」を題に句会を催しました。

「櫻雲閣といふのは、もと御寺であつたのが、中学校になり、小学校になりして、今は公会堂に使はれているとの事である。随分大きな建物である。私等は一行に余程遅れて席についた。席といふのは二階である。四十八畳であつたかと思ふが、一行と熊谷の俳人と合はせて五十人程の人がその一間に居流れている。私は相談を受けて句会のプログラムを作つた。今日は作句のみをして席上選句を省略し、後日虚子先生の選を願ふ事として先生に俳話を願ふ事になつた。一行は晩餐の箸をとり上げた。千甕畫伯は単身帰られたものか遂に席上に姿を現さなかつた。虚子先生、石鼎、月舟、青峰の諸氏と私は集つて来る色紙と短冊を一枚も余さず塗りつぶした。和久井吟笑、廣瀬水楓、斎藤大霧楼、鈴木具川、斎藤紫石、斎藤紫山、馬場孤星、棚霧露翠、棚橋酔月、大倉芦川、高橋松濤諸氏の斡旋につとめているのを見た。予定時間を少し遅れて八時三十六分の上りを待つた。あとの句会はどんなに盛んであつたらう。
 席題燕五句。虚子先生選句。
 燕飛ぶや 雨をもたらす 南風強し  零余子
 巣燕に 高荷取り入るる 大雨哉  同
 陰晴の 日の大風や 燕無し  岬雲
 巣燕に ラムプ淋しや 峠茶屋  石鼎
 浜燕 月落ちてあり 海廣し  一二
 山頂に 汗拭ふ上を 飛ぶ燕  青像
 (聖天山門)ふと仰ぐ 眼に燕の尾を 見たり  としを
 燕に 緋をのみ張れる 緋雨哉  晴崖
 集燕に 馬おとなしや 百姓家  巣霞
 飛ぶ燕 草家の庇 細雨あり  吟笑
 荒浪に 見え隠れする 燕哉  花重子
 軒並に 漁具掛けて住むや 燕飛ぶ  青峰
 燕に 櫻の夢の 紅き哉  的浦」

下の写真は、明治末から大正期にかけて発行された櫻雲閣の絵葉書です。
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