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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記4 [紀行]

熊谷寺見学の後、虚子一行は、薄暮の中、竹町から池亭(現・星渓園)を見学し、荒川の桜堤に出て、一人の芸者とすれ違います。

「薄暮であるが、まだ灯はつかない。熊谷の町を抜けて竹町といふに出た。両側は瀟洒な家が並んでいる。御神燈のともつてある下には朧げに下駄の鼻緒が見えてなまめかしい。そこを突当つて竹井耕一郎氏の「池汀」を見せて貰ふ事になつていた。高橋松濤君は私に熊谷俳句会の事を語つた。同君は私には古い俳友であつた事を知つた。
 池の畔には先着の虚子先生を始め多数の人が鯉を覗き入つていた。私は一人小さい橋を渡つて故皇太后陛下御成の間の前に立つた。さうして瞑目して陣屋であつた往時の事を懐うて見た。当時の陣代であつた竹井氏は今も尚ほ此の池亭の持主である。灯をともしたのでうしろの御成の間の障子は庭樹のかぶさつた中に薄赤く染まつた。私は暫く其茜さした障子を見ていた。此清泉が綾瀬川の源を為すのださうな。
 門を出ると、一行はどこへ行つたのか見えない。熊谷堤に上ると私の遅いのを見に来ていて呆れた松濤君を見出したもう櫻はない。そこには小さな淫祠がある。ことりと音のするのに気をとめると、祠を立つて行く一人の芸者を見た。祠には線香の火が明るく彩つている。少し行くと稲荷社がある。
 堤の櫻は植えつけて三十年程になるといふ事である。それは竹井氏、林などの尽力の下に出来たので、其林幽嶂老は水明会員として蓮生寺で我等をお迎へくれられたかくして熊谷堤の櫻は観櫻を名所として漸く世に宣伝されようとして居る。彼の堤の縮屋殺しの頃は此櫻はまだなかつたものであらう。
櫻の枝をくぐりくぐつて可成遠く行つた。或る枝にサッポロビールの紅提灯の被せのが懸つているのを見ていると、あの家が櫻雲閣ですよといふのでやがて堤の下の大きな建物の玄関に立つた。」

下の写真は、大正末頃に発行された池亭の絵葉書です。
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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記3 [紀行]

歓喜院で句会の後、虚子一行は熊谷宿へ向かい、熊谷寺で、宝物(東行逆さ馬図、鞍、鐙、珠数、蓮生自作像など)を見学します。

「熊谷の名所を見て俳句会へ」  零余子
「二臺の馬車に押しつけられていた吟行團は熊谷の人々の中へ吸ひとられて行って、帽子の渦巻きとなつているのが、何とか祝賀会とでも謂ひさうな賑かな光景だ。熊谷の町に向つて一團が練り行くのが晴れがましくつて極りが悪い。不図前の方を見ると、遥かに見えるのは先頭の旗である。「歓迎俳士ほととぎす吟行團」と筆太に書き流してある。俳士が合点が行かなかったが、これは俳誌を書き誤ったださうな。多勢の見物がかういふ一行をけげんな顔で見送っていたが「俳士劇が繰り込んで来たのよ。」と囁き合っているのが皆の耳に渡つて行つた。恰も此地に「高濱劇座」といふ連鎖劇がかかつているさうで辻にびらがぶら下つていた。何だかものがこんぐらかりさうだ。
 蓮生山熊谷寺は間近にあつた。一行は本堂の階段を塞いで、歓迎旗を中心に、あちこちに固まつてざわめいていた。それが熊谷旗揚げの場面を俳士劇で見せるのではないかと考へて見た。それは撮影を待つ暫くの間であつた。
 撮影がすんで宝物を縦覧する事になった。宝物縦覧所といふ札の懸つた玄関に下駄を残してぞろぞろと上つた。板間は曇つて光らない。そこへ洋傘や、分福茶釜の土産や、呑龍様の絵馬やをがたがたと置いた。どつちの方へ行つたらよいかと思つていると、すぐ前にある障子が開いた。煤けた障子に目をとめて中を覗くと、そこには幾人かの人がいるらしい。何だかか暗くつてちつともわからないが、何かをぢつと眺めている人や、手を触れている人がある。障子を這入つて見ると思つたより薄明であつて定かにものの形が見える。これが宝物だなと思つて鞍や、鐙や珠数などを眺める。
 坊さんが壁の軸の前に立つているのでその方へ皆が詰め掛ける。「此れは何とか。」と大きな声を立てて軸の説明をしているのが断続と聞こえる。私も坊さんに眼をとめる。蓮生法師逆馬の圖である。それは法師が東帰の際、西方に尻を向けないといふ願を立てて逆に馬に乗つて関東へ帰つて来たのを那須清信が書きとつて、徳大寺實維卿が賛歌している。古びたものである。蝋燭の焔が低い處を照しているので馬上の直実が芭蕉の顔みたいに見える。それから坊さんは種々の宝物を熱心に説明した。然しさう宝物に許り時間を割くわけにも行かないので、間も無く其部屋を見棄てて、今度は本堂の蓮生法師自作の像を拝し、其から御墓や熱盛の碑を見て引き上げなければならなかつた。一行が門を出るのを見送つて坊さんは立つていた。千甕伯はあとに止つて御墓を写生していた。」

下の写真は、「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」に描かれている夕暮れの熊谷寺です。
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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記2 [紀行]

利根川の舟橋を渡った虚子一行は、妻沼の歓喜院を訪れ、本殿の彫刻を見学しました。その後、門前の三浦屋で、「木の芽」を題材にした句会を催しました。

「妻沼」:虚子
「馬車を下りてふらふらする足もとで山門を潜った。馬車の中から遠望した時には色とりどりに木の芽を吹いた新緑の森とばかり眺めていたのであったが、かかる田舎には珍しい大きな建物が目の前に静つていた。本堂を包んでいる彫刻が特に有名なものださうで一疋の猿を足の力爪で引き浚へている鷲の姿勢や、その鷲の方に尻を向け乍ら振り返って手を翳している他の猿の姿勢などは、流石に目を止むるに足るものであった。これは一つの扉の彫刻であったが、其他壁といはず欄間といはず悉く木彫りで成り立つているので、今は大方剥げているけれどもところどころに残っている丹碧の色と相俟つて、此田舎には珍しい贅沢な建物と思はしめた。一つの瓦頭口は、二疋の蛇の交んだ形で出来て居る。もと聖天といふものは男女が抱擁して居る形とか、此瓦頭口にあるやうな蛇の交んだものを本尊として祀っているとかいふやうなことを聞いて居る。或は人間の生殖といふことを極く真面目に考へてそれを祀ったものかもしれない。その聖天様が、此妻沼の森の中で斯く人工を尽した彫刻の壁や欄間に取り囲まれて、堂々たる威容を示して居ることは珍しいことに思はれて、眼を瞠つて見た。普通の参拝者は囲ひの内部へまで立入ることを許されないのださうであるが、我等は其を許されて、巣霞、露耕、晴崖、刀■、如洗の諸君の他に二葉國手も来て案内や説明の労をとってくれた。
 此聖天堂は斎藤実盛の次男の、斎藤六實長といふ人が出家して阿謂法師といったのが、建久四年に鎌倉の免許を得て関八州を勧進して四年間かかって造立したものを、天文二十一年忍の城主成田下総守が再興したものだといふことである。兎に角田舎に珍しい建物といはねばならぬ。参拝を終へて木の芽の吹き満ちた周囲の森の中を歩いた。天を摩する大木に龍の如き藤の大幹の這ひ上っているのを、下から見上げた景色は雄大であった。
 山門前の三浦屋といふ料理店の裏に立札がしてあってそこが俳句会の席場になっていた。木の芽十句を作って互選した。
 作者二十八人。選者二十三人、互選結果、虚子(拾八点)、零余子(拾七点)石鼎、巣霞(各十四点)、月舟(十二点)、一水(拾一点)、瓜鯖、花囚(各拾点)、的浦、鳴潮(各九点)以下略。
高点句
六点 桑の芽に 沈みて低き 藁家かな  虚子
五点 木々の芽に 軒の古簾を 捲きにけり  月舟
四点 行楽の 人の面吹く 木の芽かな  虚子
同  木の芽吹くや 大きく明けし 沼の朝  一水
其他。
沼を翔りし 鳥来てとまる 木の芽哉  零余子
日に光りて 駒鳥わたる 木の芽哉  零余子
大風の 曇天にひろし 枝木の芽  岫雲
かげりては 光る湖畔の 木の芽哉  鳴潮
木々の芽の 明るさにとぶ 蝶々かな  的浦
大木立 頂高く 芽を吹けり  たけし
舟橋の 風強かりし 木の芽かな  瓜鯖
八重の櫻を ゆさぶる風や 木の芽吹く  虚子
欄干の 人に親しき 木の芽かな  虚子
会の終わったのは四時頃であった。」
下の写真は、安政6年(1860)刊『根本山参詣路飛渡里案内』に描かれた「三浦屋」です。
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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記1 [紀行]

大正6年(1917)4月に、館林・太田を訪れた「ホトトギス吟行会」の高浜虚子(1874-1959)一行が、利根川に浮かぶ舟橋を渡って妻沼・熊谷宿を訪れています。『ホトトギス』第二十巻第九号(大正6年:熊谷図書館蔵)に「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」と題し、その時の様子がイラストとともに掲載されています。
「船橋とどろ(第一の馬車)」:岫雲
「(前略)無休憩の急行で馬車は森や村を駆け抜け今利根川の堤に這ひ上った處である。馬車が堤を下りざま凄い音が轟いて危く板橋を渡るのであった。
(略)三台の馬車が広い河原に下りた。一同歩行する事になる。銘々襟に分福茶釜の縁喜をさして利根の本流にかかっているへなへなの船橋をトドロと渡りはじめた。空車が後から続いて渡る。この船橋は一町余の長さであった。」雨期に入って利根が汎濫するときは取りはづせる様になっているのださうだ。「此の堤が切れた日には妻沼の木立は一本もあまさず水につかって了ふんです。」と誰かが話していた。馬車の中でも随分寒い風にあてられたが橋上は一層強い風が吹いている。(略)瀬の中に水車が一つ廻っている。砂利をとる舟が一二隻岸によって浮かんでいた。川下の白帆は満帆に日を浴みてはらんでいる。
(略)妻沼の聖天の前で馬車が止まった。傍にホトトギス吟行御休憩所といふ大看板が立ててある。障子に三浦屋と貼紙がしてあった。」
この船橋は、それまで渡し船で行き来していたものを、明治17年舟橋にしたもので、大正11年に木橋「妻沼大橋」が完成している。
当時、太田・妻沼間の利根川は、大きな中洲があり、利根川の流れが2分されており、細い支流の太田側の橋は木橋、本流の妻沼側は船橋になっていました。
太田から中洲までは馬車に乗って通れ、船橋部分では馬車を降りて通っていたこと。利根川に水車が設置されており、砂利採取の船や、帆掛け船が利根川を運行していたことがわかる記述となっています。

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『ホトトギス』第二十巻第九号「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」挿絵
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建部綾足:三野日記2 [紀行]

建部綾足の『三野日記』における、熊谷の石上寺以外の記述を紹介します。
明和3年(1766)10月7日に熊谷を訪れた涼袋は、長栄(須賀市左衛門:笑牛)宅に宿泊します。夜になると荒川に近い長栄の家には荒川の川原風が吹いて来て、鴨の鳴く声が聞こえます。中山道に近いため、旅行人が「ああ寒い」と言って通り過ぎました。
8日には、野口雪江の母が最近亡くなったと聞き、追悼の短歌「たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり」と片歌「寒き夜に 肌したひしも おもふべし」を贈りました。この晩には、石川という場所で火事があり、風が強かったため家が7軒焼けたと記しています。
そしてそこに12日程滞在し、鯨井という男の石上寺の話を聞き、18日に本庄から両毛地方を遊歴し、12月3日、右目を病んで村岡に戻り5日間滞在しています。
(前略)
「七日、雨なごりなく晴て、日かげいとけざやかなり。くまがやの堤を行とて、見れば、冬の花どもいとはかなげにさけり。
くまがやの 道のくまびに さく花を 折てぞしぬぶ ひとりし行けば
さて、熊谷なる長栄がりとふに、とどめられてやどる。夜もふけぬれば、川原風のおとづるる方より
鴨ぞ鳴く 霜おくべしと 思ふ夜に
此夜はいもねず。
大路のいとちかきに、旅行人にやあらむ、「あなさむや」などいひすぐ。
行駒の おときこゆなり 夜や明ぬらむ
八日、はゆまのたよりありとききて、けさよみつる歌ども、妹がりへとて人につく。長よし物したまひて、其友なりける中睦が父のかくれすむなるいほりに、いつまでもあれとてすえたまひけり。此庭に山橘のおほく植てはべりければ、
やま人に こひてうえけむ あしびきの 山たちばなを 見るがたのしき
「かねてむつびし雪兄ぬしはいかに」と問ひしに、
「近き比母なくなりたまひてこもり居れり」と聞て、いたみてよみつかはす。
たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり
片歌
寒き夜に 肌したひしも おもふべし
此夜、子ふたつばかりに、石川といふ所より火出て、家七つなむやけぬ。風のはげしかりつるを、
星や飛ぶ 紅葉や散る ともゆる火の」
(中略・石上寺の話・本庄・両毛地方遊歴)
「たどるたどる村岡なる雨皐、かねてちぎり置しかばとふに、をちつ日、おほやけの事につきて江戸に出て、あらず。そが友可了、むかへてやどらす。圭語・岸艪・其鉤などいふ者来たりて、かたらひなぐさめけるほどに、ま薬などたうべて、次の日もとどまる。熊谷なる中睦来る。
五日、おなじ所の長よし、かたまごしの事などものしきこえて、「目の事はかろがろしき事にもあらじ。いづこへもよらで、ただにかへれよ」などきこゆるを、うべうべしくおもひぬれば、「今朝なんまかむづべし」と云。此家のむかひに御鷹かひの来て宿りたるが、をちこち猟しありきなどするを、ほのかに見て、
我にこせ 鷹のとき目は 罪ふかし
人々おくりす。其夜、桶川てふうまやにやどる。
(後略)
下の写真は、大正期の熊谷本町の中山道の様子を写した絵葉書です。
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建部綾足:三野日記 [紀行]

建部綾足(たけべあやたり:1719-1774)は、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師。別号に、葛鼠・都因・凉袋・吸露庵・寒葉齋・孟喬・毛倫・建長江・建凌岱。俳諧を志し、師は、蕉門の志太野坡(1662-1740)、ついで、伊勢派の彭城百川(1697-1752)、和田希因(1700-1750)、中森梅路(■-1747)。
綾足は、江戸中期(宝暦・明和年間)の熊谷俳壇に大きな影響を与えました。笑牛(須賀市左衛門:長栄)、雪江(野口秀航)の師で、明和3年(1766)10月4日に江戸を立ち、10月7日に熊谷を訪れ、笑牛宅に滞在しています。この時の紀行が『三野日記』に記されています。
この中で、鯨井という男が語った奇譚が記されています。

「鯨井といふをとこあり。かれがいはく、「こはそらごとにあらず。此所に石上寺といふ寺の藪原より、竹の、もとすえに頭の髪なむおひ出たるが、しかも四もと五もと侍り。おのれも一もと得つ」と。所の人はかねて見もし聞もしつれば、さもおどろかず。され先ほしくなりつれば、「かれ得させよ。かならずかぐや姫などこそかくれおはさうずるものなれ。そらへとてにげ給はぬやうにつつみもて来よ」といへば、「さらばをしむべきものなれど、色ごのみたちのよばひわたり給はむも、いとうるさかるべし」とて、やがて得させつ。さて見れば、ほそき竹の根より七寸ばかり置て、そぎたる口より、黒髪のつやつやしき五すぢ六すぢぞおひ出たえる、いとあやしき。長栄、「ためしてや見む」と、一すぢぬき出して、火に焼ば、けがらひあるかをりまでも人の頭なるに違はず。「こもあることかは」とて、はじめて友がきどものくしくなむおもへるさまなり。」

大意は、「鯨井という男が、石上寺の藪から、竹の根元から髪の毛の生えたものが4つ5つ出た。おれも一つ持っていると話した。そこに居た人はすでに知っていたのか驚かなかったが、それを見てみたくなり、それは必ずかぐや姫などが隠れているから、空に逃げないように包んで持ってくるようにと言った。やがてその男が持ってきたものを見ると、細い竹の根から七寸程の所から、つやつやした黒髪が5・6本出ていた。とても怪しい。長栄(笑牛)は、試してみると言って、一本抜いて火で焼くと、間違いなく髪の毛の臭いがした。こんなことがあるとはと、初めて皆、不快な思いをした。」
残念ながらかぐや姫は出てきませんでしたが、不思議な話です。

この『三野日記』は、熊谷図書館蔵『建部綾足全集』第5巻:国書刊行会:昭和62年刊に収録されていますので、興味のある方はご覧ください。
下の写真は、熊谷図書館蔵の大正14年刊の絵葉書「熊谷名勝 石上寺観世音」です。
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小林一茶 『寛政三年紀行』 [紀行]

 一茶が、寛政3年3月26日江戸を発って、下総を巡り、4月18日に江戸に帰着するまでの20余日間の紀行で、4月12日に熊谷を訪れ、医者の三浦玄正の家に泊まっています。熊谷寺を訪れ、直実と敦盛の墓を見て、「陽炎や むつましげなる つかと塚」と詠んでいます。

「熊谷本町三浦玄正やどる。
十二日 蓮生寺に参。是ハ次郎直実発心して造りし寺かとや。蓮生・敦盛並て墓の立るも又哀也。抑安元の春の此は、一門の盛りなること、朝日の升るがごとく、松柏の茂るがごとく、朝恩あく迄潤して、降雨に等しく、人望思ひのままに、秀て、蘭の露を添たるに似たり。盛なるもの必おとろへ、生る者ハ滅るのならひ、寿永の始ハ世中さわがしく、暴雷雲を響して、日月光りをうしなひ、軍慮浪を逆立て、干戈威をあらそふ。平家の運ハ霜と消え、木葉と乱て、昔ハ虎とおそれられしも、今ハ鼠の逃所にせまる。いまだ若竹の節々かよわき敦盛ハ、直実がために打れ給ひぬ。きのふハ雲の戯れに、月とかがやき花と匂ひて、詩歌管弦の遊びに夜をつぎてたのしびしも、あにはからんや、けふの今ハ須磨のあらしのあらあらしきみるめを終の敷寝として、枕の下のきりぎりす、残る歎きを母にゆづらんとは。心のうちのかなしミ、今見るやうに思はれて、そぞろに袖をしぼりぬ。是皆宿業のむくゆる報ひにて、恥をさらし、ほまれをとるも、皆一睡の夢にして、かくいふ我も則幻ならん。
陽炎や むつましげなる つかと塚」

*この「寛政三年紀行」は、市立熊谷図書館所蔵『一茶集』丸山一彦・小林計一郎校注:集英社:昭和45年に掲載されていますので興味ある方はご覧ください。
下の写真は、戦前の絵葉書「熊谷直実公御墓及び外郭」。
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田山花袋『東京近郊一日の行楽』 [紀行]

田山花袋(1872-1930)が、東京を中心として、日帰りまたは一泊二日の旅行をする者のために書いたガイド本『東京近郊一日の行楽』。この中に、大正4年1月17日に、小説『残雪』の題材とした上州旅行の際に妻沼を訪れ、聖天山境内の千代舛に宿泊した際のことが「妻沼の聖天祠」として書かれています。

 (前略)
 私は太田の呑龍の入口の前で、妻沼の方へ行く馬車を待った。「さうですな、中食する位の隙はありませう」かう馬車の親分らしいやわらか物を着た男が言ふので、私はそのすぐ前の飯屋に入って昼飯をすませた。
 やがて馬車は出た。
(中略)
 二里の路はさう大して遠くなかった。やがて私は利根川近くに来ていた。で、私は馬車から下ろされた。
「妻沼かえ?もう?」
「川をわたると、すぐでさ」
かう言って、馬車は妻沼の方から来た客を一人拾って、さっさと元来た路の方へと引かへして行った。顧ると、太田の金山は安蘇山群の中にぴったりとくっつくやうになって了っていた。此處で見ると、日光山群の雪が矢張その山脈の盟主をなしていた。
 やがて私の前には、雪を帯びた利根川が廣く静かに展けられた。岸に残った雪に日影がきらきらと反映して、碧い碧い水の色が刺すやうに刺激した。川上には、河川工事の浚渫船が繋がれてあって、黒い煤煙がもくもくとあたりに漲り渡った。
「川上の浚渫船に立つけふり残れる雪の上になびけり」かういふ歌を私は詠んだ。それから「おく山の雪よりかけて遥かにも野になびき伏すあその村山」かういふのも出来た。
 やがて聖天の森がこんもりと前に見え出して来た。「呑龍と聖天と相對す夜の寒さかな」かう言って私は独り笑った。
 妻沼の聖天祠は、埼玉ではきこえた流行佛である。東京などからも講中があって、二月の節分などには非常に賑はふのが例だ。「聖天さまだけは信仰するものぢやない。屹度願が叶ふけれど、その人一代で、あとはすっかり駄目になって了ふ」などと言ふけれども、それでも聖天を祈って、家運の隆盛を来たしたものは沢山にある。
 妻沼の町はさびしい田舎町だ。しかし聖天の社は宏壮を極めている。門から本堂まで一二町、境内には大きな杉の樹が茂って、昼猶暗しといふ趣がある。山門を入って本堂、そこには蝋燭が一杯上げられてあって、読経の聲が常にあたりに響いてきこえた。
 私は山門の前にある料理兼業の旅館の一間に一夜すごした。其處では、「昼すぎの町をすぎ行く獅子舞の笛わが窓の紙にひびけり」だの、「宵の間はさわがれ夜はたわられてねられざりけり田舎の宿屋」などといふ歌を詠んだ。
 あくる朝は早く起きて、其處等を歩いた。山門の鳩の啼声、毛糸の襟巻をして朝早く遊んでいる娘達、早くから始っている鉦と読経の聲、「子供等は早し御堂の朝明けの鳩と共にも出でて遊べり」かういふ風に私はその實景を歌にした。
 其日は私は利根川に添った路を東に向って、今まで来た山を後ろにした。
今度は秩父の山の雪が私の眼を明かにした。そして二時間後には、見沼用水の利根からわかれるあたりを通って、新郷から羽生の町の方へ出て来ていた。
関東平野をめぐれる雲は、猶美しく私の周囲にあった。
今はしかし太田、妻沼、熊谷間に定期自動車が出来て一時間位で往ったり来たりすることが出来た。

下の写真は、国立国会図書館デジタルコレクションに掲載されている『東京近郊一日の行楽』の表紙です。
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『続膝栗毛』 [紀行]

江戸時代後期の戯作者十返舎一九(1765-1831)の『続膝栗毛』に、弥次さん喜多さんが熊谷宿を訪れた際の様子が記されているので紹介します。『続膝栗毛』は、『東海道膝栗毛』の続編で、弥次さん喜多さんが、金毘羅、宮島の参詣を終え、木曽街道を経て江戸に帰ってくる旅行記です。


此うち高柳、石はらをうちすぎて、くまがへのしゅくにいたる。
弥「ナントここに評判のそばやがあるといふことだ。いつぱいくつていかうか。」
北「ヲヲその梅本よ。ハハアここが布施田だな、これも評判のいいやどだ。ヤアそばやはこれだこれだ。(ト、打つれてかの梅本へはいり)」
弥「モシぶつかけをあつくして二ぜんたのみやす。」
そば屋「ハイハイかしこまりました(ト、さつそく二ぜんもつてきたると、)
北「なるほどいい蕎麦だ。そしてめつさうにもりがいい。したぢのあんばいも申分なしだ。
弥「コリャ一首やらずばなるめへ。熊谷の 宿に名だかき ゆえにこそ よくもうちたり あつもりの蕎麦」

下の写真は、十返舎一九の『続膝栗毛』12編上(国立国会図書館デジタルコレクション)に掲載されている熊谷宿の鳥観図です。そこに忍岡常丸の和歌が記されています。
「うららかに 春はさむさも うすすみに 霞いろとる くまかへの宿」
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木曽義仲生誕の地 その2 [紀行]

 鎌形八幡神社から2キロほどのところに、義仲の父・義賢が館を構えていた大蔵館跡があり、跡地内には大蔵神社があります。
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 久寿2年(1155)、義賢の勢力拡大を恐れた兄の義朝は自身の長男・義平(悪源太義平)に命じ大蔵館を攻撃し、義賢は討たれてしまします(「大蔵館の変」)。このとき、駒王丸(後の木曽義仲)と母・小枝御前は他出していて難を逃れます。悪源太義平の家来であった畠山重能(重忠の父)は、駒王丸を探し出し殺すようにと命じられます。重能は、駒王母子の無事を知るとこれを救出し、長井庄の庄司であった斎藤別当実盛に母子を託しました。実盛は、駒王母子をしばらくかくまっていましたが、追手の探索が迫ってきたため、駒王丸の乳母の夫で信濃国権守であった中原兼遠に二人の身を託しました。駒王丸はすくすくと育ち、木曽冠者義仲と称されるようになります。

 館跡は、周囲を堀と土塁で覆われ、規模は東西220メートル、南北170メートルで、近年の発掘調査により、一辺70メートルほどの小館が存在したことがわかっています。大蔵館跡は県の指定史跡となっています。

 また、大蔵館跡から東に200メートルほどのところに、源義賢の墓とされる五輪塔があります。火災による変色のあとがみられますが、県内に所在する五輪塔の中では最古の部類に属します。
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