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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記4 [紀行]

熊谷寺見学の後、虚子一行は、薄暮の中、竹町から池亭(現・星渓園)を見学し、荒川の桜堤に出て、一人の芸者とすれ違います。

「薄暮であるが、まだ灯はつかない。熊谷の町を抜けて竹町といふに出た。両側は瀟洒な家が並んでいる。御神燈のともつてある下には朧げに下駄の鼻緒が見えてなまめかしい。そこを突当つて竹井耕一郎氏の「池汀」を見せて貰ふ事になつていた。高橋松濤君は私に熊谷俳句会の事を語つた。同君は私には古い俳友であつた事を知つた。
 池の畔には先着の虚子先生を始め多数の人が鯉を覗き入つていた。私は一人小さい橋を渡つて故皇太后陛下御成の間の前に立つた。さうして瞑目して陣屋であつた往時の事を懐うて見た。当時の陣代であつた竹井氏は今も尚ほ此の池亭の持主である。灯をともしたのでうしろの御成の間の障子は庭樹のかぶさつた中に薄赤く染まつた。私は暫く其茜さした障子を見ていた。此清泉が綾瀬川の源を為すのださうな。
 門を出ると、一行はどこへ行つたのか見えない。熊谷堤に上ると私の遅いのを見に来ていて呆れた松濤君を見出したもう櫻はない。そこには小さな淫祠がある。ことりと音のするのに気をとめると、祠を立つて行く一人の芸者を見た。祠には線香の火が明るく彩つている。少し行くと稲荷社がある。
 堤の櫻は植えつけて三十年程になるといふ事である。それは竹井氏、林などの尽力の下に出来たので、其林幽嶂老は水明会員として蓮生寺で我等をお迎へくれられたかくして熊谷堤の櫻は観櫻を名所として漸く世に宣伝されようとして居る。彼の堤の縮屋殺しの頃は此櫻はまだなかつたものであらう。
櫻の枝をくぐりくぐつて可成遠く行つた。或る枝にサッポロビールの紅提灯の被せのが懸つているのを見ていると、あの家が櫻雲閣ですよといふのでやがて堤の下の大きな建物の玄関に立つた。」

下の写真は、大正末頃に発行された池亭の絵葉書です。
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