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秋の一日(5) [紀行]

「秋の一日」:晩餐会 岡野孤童:『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催した後、一行は荒川の熊谷堤に出て月を見上げながら、料理屋魚勝へ向かいます。記述は、岡野孤童。

「星溪園の句会は終わった。一行の帰られる時間は八時二十五分と決つて居た。時間は猶二時間ばかりあつた。私自身としては折角先生の御来車の折であるから勝手に機能ではあるけれ共、たとへ十分なり二十分なり、選句の御講評、又他の俳論を御伺ひしたかつたのであるが、櫻堤をブラブラしたいといふ事になつて惜しい乍らも希望はあきらめ兎も角も櫻堤に上がった。暮れて一旦暗かつた處へ十四日の月が登り始めて、通りの電燈に交つた其の明りが、遠く隔つた灰色の秩父連山に対照して言ふに言はれないいい景色であつた。
「なる程いいですなあ。」一行中の誰かが言つた。
「花の咲く時分だとほんたうにいいんですがね」と一路君が其の頃の事を話した。
「併しめずらしい堤ですなあ」
「何しろ三十丁ばかり続いて居るんですからねえ、それが一時に花を咲かすのですから賑やかなことですよ、その時は又どうぞお越し下さい。」「ええありがたう」などと言つて居る中に五六丁歩つてしまつた。
「先生発車まで大分時間がありますから、一寸晩飯をやらうぢやありませんか。」といふ話がまとまつて一路君を先頭に魚勝に着いた。
 此處も星溪園の様な泉の湧く池があつて、其の池を遶つて座敷が並んでいる。
「温亭先生や土上の連中が大勢来たといふのは此處ですか。」一水さんが聞いた。
「ええさうです」一水さんが廊下に出て手を叩く。鯉が沢山集つてくる。大勢して其の池を見る。熊谷は非常に水に富んだ處で、井戸を掘る事など実に容易であるといふ事などが話された。
 今日はめづらしく客がなくて静かだ。
 私達は正面の一番大きな部屋に陣どつた。此處でたけし先生から私達の句につき色々と説明して戴いた。交代に入浴にゆく、其の中に酒がくる、肴がくる。
 一路君が立つたり跼んだりして女中に世話をやいて居る。一同は大食卓を囲んで坐る。
 此處で晝間は居らなかつた当地の町会議員で舊派の俳人である、凡骨宗匠もちゃつて来た。近頃ホトトギスを読んで勉強しているといふ。さかんに飲み始めた、さかんに食い出した。先生が山に入る時ゲートルが巻けないで巻いてあげた事や初茸だと思つてとつて来たのが油茸で食べると死んでしまうなどと言はれて驚いた事や、一番槍だの一番首だのといつて茸をとつて歩いた事や、ゝ石君があちから車でひよくりと山へ駆けつけた事や、案内者が土もぐりといふ茸をとつた事や、獅子茸がどうしたの、天狗茸はきびが悪いの、布引茸なんて面白い名前だの、自分がはじめ初めて茸狩をした連中が多いので、其の時の事を思ひだしては面白く話す。話は尽きなかった。
 一路君が一同に長瀞行をすすめる。煤六、夏山、青邨、三七の諸君はどうすすめても帰る事となつた。秋紅君は妻君が行田の病院へ入院しているのでといつて一行と共に汽車に乗つた。
諸君を見送つて行つた驛で中西の露翠君、竹聲君、星畔君に会つた。天候の加減をして当地の句会に間に合わなかつたのを気の毒に思つた。たけし先生にお会ひして帰つたら如何ですかと言つたが作句を私に預けて帰つて行つた。一行をを送つた私と一宿君とは再び魚勝へ引返した。」

下の写真は、大正時代に発行された絵葉書「魚勝の大広間」です。
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寺内廃寺の遺物整理から―10 「金銅仏光背」 [整理作業]

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寺内廃寺出土
光背破片(左)と想定復元図(右)
法隆寺献納金銅仏
「光背195号」と
「観音菩薩立像185号」
像高31.2cm
7~8世紀
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参考 奈良国立博物館1981「法隆寺献納金銅仏」図録より転載

寺内遺跡の金堂跡から出土した小さな銅板片を紹介します。
圏線の内側に突出部を作り出すほかは、折れた破断面をしています。おそらく小金銅仏の光背ではないかと考えられます。圏線の直径が12㎝ほどに復元されるのでスカシを持つ5窓の中心飾りになるとの想定で復元してみました。弧線状のモチーフは5分割がちょうどいいようです。左上部に切り込みが遺ることから方形状の炎光としてみました。類例は見当たらないようですが一案です。

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駅弁掛紙21 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介21回目。今回は秋山亭本店の「上等御弁当」です。
桜のつぼみのモチーフが描かれた背景に、「上等御弁当」「熊谷 秋山亭」「金四十銭」と記されています。3つの四角の枠の中には「国民新聞」「天下の銘酒 摂津灘御影 醸造元肥塚商店」「櫻の東京へ 平和博覧会自三月十日至七月三十一日 飛鳥山四月初旬見頃 小金井四月中旬見頃 荒川堤四月廿日頃見頃」と記されています。
平和博覧会は、大正11年に上野公園で、第一次世界大戦終結後の平和を記念し、日本産業の発展に資するために東京府が主催で開催されました。来場者は約1100万人と空前の人出になりました。
調整印を押す欄がありませんが、上等弁当の40銭の価格は大正10年に設定されたもので、翌11年には35銭に値下げになっていることから、この掛紙は、大正10年頃に使用されたものと推測されます。
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秋の一日(4) [紀行]

「秋の一日」:熊谷の月 夏山::『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催した後、一行は荒川の熊谷堤に出て月を見上げながら、料理屋魚勝へ向かいます。記述は、ホトトギス吟行会の松藤夏山(1890-1936)。

「句会が済んだ時はすつかり夜になつていた。会の為に使ひ等して呉れていた少年が「月が出ました」と知らせに来た。二三人縁側に出たが庭木の陰になつて見えない。「此所からは見えません」と少年がいふ。
 短冊を書いたり後片付けをしている人々を残して外に出る。晝間皆を喜ばせた庭の清冽な泉は闇の中に湛へていた。門を出る。いい月だ。十四日の月である。両側にずつと軒燈の点いた街道の丁度真上に上つて居る。赤味を帯びて少し潤んだやうに見えた。
「いい月だな」と口々にいふ。今朝の天候からして期待しなかった月とて皆の喜びは殊更であつた。
暫くして話しながら門の中から出て来た人が「こちらに行きませう、堤の一番端に出て歩いた方がいいでせう」と云って先に立つ。月の照らさない狭い路地を一列になつて歩く。時々家の中から灯が洩れて目を射る。僅か一丁位で熊谷堤へ出た。
堤の櫻樹には葉は一枚もなかつた。櫻の落葉は早いものだと思ふ。
この堤は葉櫻の頃一度来た事があるので珍しくはなかつたが、月の裸木の堤をぶらつくのはいい気持ちだ。
一帯に薄い夜霧がかけている。右手の田圃は限界をぼかして夢のやう、左には熊谷の町が眠ったやうに灯つていた。
我等は三人五人と話しながら月の堤をゆつくり歩いた。月も櫻の枯枝を移つて行く。
六時何分かの上り列車が着きの前を通つた。後ろは又静かさに帰る。
長い堤が盡きた。堤を下りて一同は魚勝といふ料理屋に晩飯を食べに入った。その家の上り口で長靴を抜いでいると「危なく皆を見失ふ所であつたが丁度あなたに出逢つてよかつた」等話しながら一水さんが土地の人孤童さんか誰かと這入つて来られた。」

下の写真は、大正期の石上寺南側の荒川桜堤を写した絵葉書です。
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石塔 [中世]

市内樋春の旧観音寺の住職墓地に建てられている石塔を紹介します。
この石塔は、中近世の石造物の部材を集めて組まれたものです。
上から、五輪塔の空風輪、茶臼の上石、石仏の台座・基部で構成されます。
おそらく、近年になって散乱していた部材を集めて塔にしたものと推測され、こうした事例は珍しくはありませんが、茶臼が混じることは稀です。
この茶臼は、安山岩製で、茶臼を回すための挽手の棒を差し込む台座の文様は二重の菱形です。時期的には16世紀頃のものと思われます。ちょうど中央に芯木を通す穴が開いており、五輪塔の空風輪の基部が入れられています。
茶臼は、抹茶をつくる際に必要不可欠となるのもので、利休により茶道が大成される以前の茶は、主に顕密寺院、禅宗寺院で栽培され、献茶や修行の一環として飲まれていました。旧観音寺の詳細は不明ですが、16世紀にこの寺院でも抹茶が飲まれていたことを示す資料です。
ちなみに、一休の『骸骨』に
「なきあとの かたみに石が なるならば 五りんのだいに ちゃうすきれかし」
という歌が、骸骨が、茶臼を石塔に組んだ前で踊るイラストとともに書かれています。
「権力に追随し、茶磨を切らせることができるような身分に安住して修業を怠って いる高僧たちに対する鋭い批判」の歌と言われています(粉の文化史―石臼からハイテクノロジーまで:新潮選書:1987:三輪 茂雄 )
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秋の一日(3) [紀行]

「秋の一日」:星溪園句會 江口哠波::『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

ホトトギス吟行会が、福田村できのこ狩りをした後、星渓園で「茸」と「秋山」を題にした句会を開催しています。記述は、熊谷の俳人江口哠波(1878-0965)です。

「帰途土塩の別れ道で山案内の神山氏に別れて自動車が来ないから一行はぽつぽつ歩き出した。爪先昇りの人家のある處で漸く迎への自動車が来た。後れ馳せの煤六さんがそれに乗り込んで居られた。一臺では乗れきれない。丁度たけし先生は歩く方が面白いと仰しやる。其處で一宿、一路、孤童の三氏は句会の仕度があるので一足先に自動車で帰る事になる。外に東京の二方も乗り込まれる。たけし先生と煤六さん其他の方々と私の七人が又ぽつぽつと歩き始めた。野原村を経て村岡の稲田を通ると吾等の一団に驚いてか一群の稲雀が舞ひ上る。たけし先生があれ稲雀がとおつしやる。私は何か句が出来さうに考えた。村岡の酒屋の處で二度目の迎への自動車が漸くに来た。自動車を急がせて四時半頃星溪園に着いた。園は土地の舊家竹井氏の別邸で泉の湧く大きな池を控へ数寄をこらした建築で仲々幽雅の仙境である。たけし先生には曾てほととぎす社の太田、熊谷地方吟行の折に虚子先生と同行で立寄れた事のある處で深く印象の残られてある處だとの事である。留守居の中川迂呆老人は古くからの俳人であって、迂呆さんの好意で句会の場所に借りたのである。設けの座敷に通ると先着の人達によって句会の仕度が出来て居た。先生の出題茸と秋山の互選が始まる。披構された時分には既に日はどつぷり暮れて鏡の様な月が泉の空にかかって居た。そして六時頃この星溪園を辞して道を月の櫻堤に出た」

下の写真は、大正期の絵葉書で、星溪園の池と建物が写されています。
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令和5年度夏休み企画 あなたも古代人2023 [普及事業]

江南文化財センター夏休み企画「あなたも古代人!!」を開催します。
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古代の熊谷にふれてみませんか?まが玉・土器づくりに熱中してみませんか?
詳しくは、熊谷デジタルミュージアム内、イベント・テーマ情報「あなたも古代人」2023特設ページをご覧ください。
https://www.kumagaya-bunkazai.jp/eventtheme/anatamokodaijin2023.htm


開催概要
<土器、はにわづくり>定員各回12名
・7月24日(月)、27日(木)、31日(月)、8月1日(火) 午後1時30分から3時30分まで
※土器・はにわ・土鈴は、乾燥させてから窯で焼きます。お渡しは、8月23日からになります。
 費用:300円 応募締切7月4日(火)


<まが玉づくり>定員各回12名
7月29日(土)、8月7日(月)  8月8日(火)
(午前の部 午前10時から12時まで ・午後の部 午後1時30分から3時30分まで)
費用:300円 応募締切7月4日(火)

<ミニ銅鑑づくり>定員各回6名
・8月9日(水) 午前の部のみ 午前10時から12時00分まで
費用:500円 応募締切7月4日(火)

会場
江南文化財センター(熊谷市千代329)

服装等
作業しやすい服装、飲料水等


申込み
(1)電子申請(スマートフォンから)
 ちらしのQRコードを読み取り、熊谷市電子申請・登録サービスページから、「利用者登録せずに申し込む方はこちら」を選択し、利用規約を読み「同意する」を選択、必要事項を入力の上、「確認へ進む」を選択し、確認画面を確認し「申込む」を選択。申込完了画面になり、整理番号とパスワードを控える。
(2)電子メール
応募締め切りまでに、希望講座名、学校名、学年、郵便番号、住所、体験者氏名(ふりがな)、保護者氏名、連絡先電話番号、体験人数を記入し、下記へお申し込みください。
メールアドレス:c-bunkazai@city.kumagaya.lg.jp 熊谷市立江南文化財センター

*参加者決定について
応募者多数の場合は、抽選を行います。参加の決定は、「参加者決定通知」のハガキでお知らせします。抽選漏れになった場合は、通知いたしませんので、あらかじめご了承ください。なお、「参加者検定通知」のハガキは、実施日の1週間前までに発送いたします。


問い合わせ
熊谷市立江南文化財センター
〒360-0107 熊谷市千代329
TEL:048-536-5062 FAX:048-536-4575
Eメール: c-bunkazai@city.kumagaya.lg.jp
URL:https://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/index.htm
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チラシダウンロード
令和5年度 夏休み企画「あなたも古代人!!」2023(PDF:264KB)
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蛇神碑 [近代]

市内西城の弁財天神社に建てられている蛇神碑を紹介します。
この碑は、明治43年8月に起こった利根川洪水の際に、家ごと流されながら助かった茂木氏が、弁財天の使者である蛇が守護してくれたおかげと、災害から24年後の昭和9年に奉納した石碑です。
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碑文は、
「西城弁財天神社 蛇神碑

明治四十三年八月遇古来稀
大洪水刀堤欠潰之濁流呑吾
□屋一族挙任生死干激浪□
上中条切所入渦中□沈長野
漂着不思議歳自流出□当初
一蛇来附壥一族七名□□□
死干一生者則依神徳□
守護者也仍而献敷石一片
青木翠陰□

[碑裏]
昭和九年十月廿六日建
助命者
茂木三四郎
妻 くま
子供五名」

大意は、「明治43年8月、古来稀な大洪水が、刀(利根川)の堤を決壊させ、濁流が吾家屋を呑み込んだ。我ら一族は、生死を激浪に任すほかなかった。家は上中条の切所の渦中に入り込み、長野村(現行田市)に漂着した。不思議なことに、流出した時から一匹の蛇がまとわりついてきた。一族七名が助かったのは、神徳のおかげであるので、敷石一片を献じた。」です。
洪水から24年たってから建てられたもので、その間、流された家を再建し、田畑を復旧することができた感謝の気持ちで、神社に敷石を奉納し石碑を建立したということでしょうか。
碑表の額部には蛇が描かれています。
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「みかりや関連資料展」 [展示]

江南文化財センターホールで、下記のとおり「みかりや関連資料展」を開催しています。
今回は、平成29年3月31日に熊谷市有形文化財に指定された「みかりや」関連資料のうち、看板4点を展示しています。この機会にぜひご覧ください。

会  期 令和5年6月14日(水)~11月30日(木)
会  場 熊谷市立江南文化財センターホール(熊谷市千代329)
開館時間 午前9時~午後5時
休 館 日 土・日・祝日
電  話 048-536-5062
展 示 品 ・看板「免許家伝日本一神妙湯腫瘍之薬」「家伝瘡毒請合 救瘡丸」「免許売薬営業」「吉見大々桐生講」
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きかは便郵139 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介139回目。今回は「熊谷音頭」です。
この写真は、明治40年から大正7年の間に、中村写真館により撮影された、「熊谷音頭」の様子を写したものです。
お祭りの日にあたるのか、日章旗と旭日旗の張られた屋外に設けられた舞台に、熊谷音頭を披露する場面が写されています。舞台軒下には「・お・や・か・ま」と書かれた提灯が下げられており「どんおやがまく」と思われます。舞台上には女児2名が扇子を持って踊っており、後ろには、三味線、小鼓、大鼓を持ち演奏する女性6人と、扇子を持ち唄を歌う女性10人が写っています。
熊谷音頭は、平山盧江作歌、杵屋佐近作曲、藤間伊勢振付の民謡です。歌詞は、「赤城おろしを秩父でよけて 富士と浅間はさしむかひ おかひこぐるみか熊谷町は 桑の青葉の中にある 君に大橋わたれば下は 小石川原に月見草 土手のさくらをそのまま染めて 熊谷名物もみの色 水は荒川さくらは堤 武士の情けは熊谷寺 江戸からここまで熊谷堤 花の廊下の月あかり 上之めぐみで一所に 成田何の熊谷末とげる 竹町弥生の春のはりと 意気地で添うたなか 松の石原鎮守の森に 月のしづくかしめじ茸 通ふ心は箱田をこえて 恋の川上竜淵寺」
平山盧江(1882-1953)は、神戸生まれの文人で、本名は壮太郎。実父の死後に長崎の酒屋、平山家の養子になり、日露戦争中、満州に渡り、帰国後は「都新聞」などの花柳・演芸欄を担当し、大正15年長谷川伸らと第1次『大衆文芸』を創刊。都々逸、小唄の作詞も行い、この熊谷音頭も手がけています。
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