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埼玉「御墳印」プロジェクト始動! [お知らせ]

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 先日6月10日から、古墳観光の裾野を広げることを目的として、行田市(事務局:(一社)行田おもてなし観光局)が主導し、近隣の5市1町と連携して、東日本初のプロジェクトが始まりました。
 「御墳印」とは、寺社の「御朱印」の古墳版で、古墳を訪れた記念にその証として購入するものです。行田市は、県内唯一の国特別史跡「埼玉古墳群」を擁す古墳が集中するエリアであることから、周辺の古墳を有する市町と連携し、これら古墳を周遊することにより観光振興、地域振興につなげていこうとプロジェクトを立ち上げました。
 熊谷市も、このプロジェクトの連携メンバーで、第Ⅰ弾として市内広瀬の国史跡「宮塚古墳」、冑山の県史跡「甲山(かぶとやま)古墳」の2基について、販売を開始しました。
 この機会に是非、熊谷市内の古墳ほか周辺連携市町の古墳を訪れてみてください!
その際は、御墳印のお求めも忘れずに!
〇 熊谷市「御墳印」の販売場所
 (一社)熊谷市観光協会(熊谷市宮町二丁目95 間庭ビル2階、熊谷市役所すぐ)
 電話 048-594-6677
 販売時間は、8:30~17:15、土曜・日曜・祝日・年末年始はお休みです。
 販売価格は、1枚300円(税込み)
〇 詳細は、公式サイト「御墳印コレクション(https://gofunin.jp)」を御覧ください。
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寺内廃寺の遺物整理から―9 「帳(とばり)の金具」 [整理作業]

 寺内廃寺の金堂跡から発見された銅製金具には、留め釘が残り一端を輪状に加工した遺物があります。この金具は布や板などを押さえるためや、幕や帳を吊るすために使用されたと思われます。同様の金具は、奈良県薬師寺、堺市百済廃寺、大阪府鳥坂寺跡からも見つかっており、堂内を荘厳するために作られた錦織や刺繍、仏画などを飾る際に使われたものと考えられます。寺内廃寺の金堂にも錦織の飾り布や仏画の刺繍された帳などが壁を覆っていたと想像されます。
 古代の刺繍では、中宮寺に伝来する「天寿国繍帳」や当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」などがよく知られています。
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上位の2点と中位左4点は寺内廃寺
下位の2点は大阪府百済寺跡
中位右の3点は奈良県薬師寺 寺内廃寺出土状態

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3D 江南文化財センター展示室 [展示]

熊谷市立江南文化財センターの展示室を3D化してみました。
展示ケースのガラスの認識や、展示品の詳細な復元は難しいようですが、展示室の大まかなレイアウトはなんとか見られます。
https://scaniverse.com/scan/qvg3mpje3kizgulf?fbclid=IwAR0ieibs1luHbpw-dbF-3KoM6El0EHvtcFe05zE_nUDmbguZ3i0ipPqqqFw
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駅弁掛紙20 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介20回目。今回は秋山亭本店の「いなり寿し」です。
黄色のいなりずし風の背景色に「いなり寿し」「高崎線熊谷驛秋山亭本店」と記されています。中央の絵馬のイラスト2枚に描かれる意匠は何を表しているのか不明ですが、「狐」と「だるま」のようにも見えます。
定価70円で、調整印は押されていませんが、記載される代表者氏名から昭和40年代後半のものと推測されます。
駅弁に、稲荷寿しも販売していたことがわかる資料です。
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『秋の一日』(2) [紀行]

「秋の一日 熊谷へ」 山口青邨:『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社

ホトトギス吟行会が、福田村できのこ狩りに行く際、熊谷駅から車2台に分乗して向かいますが、通り道、野原の文殊寺に寄ります。そして福田村できのこ狩りをした後、一行は、星溪園で句会を催し、魚勝で宴会をおこないました。前回は、ホトトギス吟行会を迎える熊谷の側(田島一宿)の記載でしたが、今回はホトトギス吟行会側(山口青邨)の文章です。

(前略)
「荒川の鉄橋を渡ればもう十里の稲田である。実りに実った穂を垂れて、案山子の姿も此頃は、洋服にカンカン帽子、蕎麦の花も雨の空にはカラッとせず、腐った南瓜もそれと見極めないうちに過ぎ、薄の岡、柿の家、穂の草の原、家鴨の溜池など見送るほどに熊谷に着いて了った。驛には初めてお目にかかる方々のお出迎へ、驛前の弁当屋のテーブルにひとまづ腰かける、「何しろこの雨でせう、今日はとてもお見えになるまいと思って居りました」「ほんとに生憎の雨で、まだまだ来る筈だったんですが」「私の方でも方々に通知は出してあるんでして、て天気なら無論沢山来るのでしたが」「茸山の方は実は昨日わざわざ行って見て来てありますんで、初茸には少し遅い様です」「なアに香さへかげばもう満足です」こんな会話。九時五十分着の汽車も待ったが誰も見えない。それで愈々茸山に行くことにする、雨は霽れて時々明るい日射さへ見せた、これぢゃ愈々天気になると一同大いに喜ぶ、二臺の自動車に分乗して田圃を走る、帆が下りているので外はさっぱりわからない。途中車を停めて文珠様に詣る、この邊での賑やかな縁日のある所なさうだ、また馳る、大きなお百姓屋に到着する、ここの主人が山の案内をされるのださうだ、みんな山に入る仕度をする、羽織を脱ぐ人、袴を
とる人、足駄を足袋に穿き代へる人、ゲートルを捲く人、弁当包を背負ふ人、正宗の一升瓶を下げる人。」(中略)「直「ぐとつつきの處の岡に祠がある、一枚の大岩から出来てる岡だ、上り口に階段のないのが珍しい、滑るのを怖々上がる、この邊一帯に松林で、初茸がありさうだなと思って見ると直ぐ見つかる、たうとう吾輩が一番槍を入れて了った、そこを下りて又別の山に入る。「あったあった是は何といふ茸でせう」「是は初茸ですか」「それは毒茸です」「では是はどうです」「ああそれは青獅子といふ奴です」「食べられますか」「これは何でせう」「それは白天狗です」「之は」「土もぐりです」「おーいみんあな集まれ、茸の標本を見せてやる」「みんな見てからとるんだ」こんあ騒ぎをして又山を一つ越える」
(中略)山に入る時「茸狩(茸とも)」「秋の山」を提出されたのであったが、作句の方はすっかりお留守になって了っている。午少し過ぎて、みすぼらしい鉱泉宿に着く、そこへ、ゝ石さんがほっこり現れる、賑やかになる、携へた正宗に景気をつけて弁当を開く。ここを立ってまた田圃道を歩く、空は愈々晴れて柿の色が美しい、群雀が田から田へと渡る。「茸」も「秋の山」もまだまとまらない、途中で熊谷からの迎への自動車に出会うふ、そこで、一路さん、一宿さん、孤童さん、夏山さん、ゝ石さん、一水さんは先に会場の方へ行く、先生、煤六さん、雄美さん、浩波さん、秋紅さん、三七君、私は次の自動車の来るまでぽつぽつ歩くことにする、(中略)第二の自動車に乗って会場たる池亭星溪園に着く、水清かにして玻瑠の如く、鯉魚さながらに「遊魚之圖」の如しだ、樹木は古りて蘚苔青く誰か紅葉を焚く人はないかと言い度くなる。「もう締め切りますよ」先生の亭から呼ぶ聲、四阿に居た私はまだ四苦八苦の處。それからみんな集まって披講をする、もう夜である、電燈が灯る。ここをひき上げて直ぐ側から続く堤の上を
歩く、櫻樹すでに悉く落葉して折からの明月は盆の様に皓い、堤を下りて踏切を越えて町に入れば、ここは狹斜の巷である、俳人をとっつかまへて「寄っていらっしゃい」はおかしい。それから料亭魚勝に入り池水に動く月光を眺めつつ杯を重ねるうち、美人なども見え話もはづみ、歓談時の移るを知らず、時に一路さんの緊急動議「之から秩父長瀞に行かうぢゃありませんか」と、ついに先生、一水さん、ゝ石さんが行くこととなりあとに残る。ほかの四人はここに一日の行楽を感謝して、九時七分帰京の途に就く、心づくしの茸の苞を抱えて秩父赤壁の清遊は夢に載せて、うちらうちらと車窓に舟を漕ぐ。

下の写真は、大正時代の文殊寺門前の様子を写した絵葉書です。
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『秋の一日』(1) [紀行]

大正13年10月、ホトトギス吟行会は、福田村(現滑川町)できのこ狩りをするために、熊谷駅前の秋山亭に立ち寄ります。ホトトギス吟行会一行は、山口青邨(1892-1988)、一水、池内たけし(1889-1974)、夏山、三七、これを迎える熊谷の俳人は、田島一宿(1896-1973)、江口哠波(1878-1965)、古山秋紅、雄美、岡野孤童、中川迂呆(1861-1942)、柿原一路(1888-1963)です。駅前の秋山亭で待ち合わせ、車2台に分乗し、途中文珠寺に立ち寄り、福田の山に向かいます。茸狩りを楽しんだ一行は、熊谷の星溪園に立ち寄り句会を催し、その後魚勝で宴会を催しました。
以下にその概要を紹介します。

「秋の一日 一行を迎へて 田島一宿」『ホトトギス』第28巻第4号:大正14年刊:ホトトギス社
(前略)
「驛前の茶店、秋山亭には昨夜浩波老人の手に書かれた「ホトトギス茸狩吟行會休憩所」の看板が雨の簷端に立てかけてある。念のため誰か来て居るかと、聞けば誰も居らぬといふ。
すでに一行の列車が着く、九時一分である。浩波老も私も、まだホトトギス社の方々は勿論東京の俳人の顔は少しも知らない。浩波老と私とは出口両側に分かれて、今此口からはき出される一人一人に、若しやそれらしい方は無いかと、穴のあく程にらんだ。人々は皆けげんな顔をして私等見てゆく。然も更にそれらしい人影は見当らぬ。殆ど最後ともいふべき時に、五人程かたまって出た方があった。何れもインバネスに袴といつた様な出立で別に今日の茸狩に参加するものとは見えないが、其内に長靴を穿いた一人が居た。若しやこの五人連れがそれではないかしら、ままよ■■■めつぽうに当たって聞けと、其等の人の後ろを追った。「若しや貴君方は、ホトトギスの肩ではありませんか」と聞く、「さうです。あちらがたけし先生です」と云はれた。併し其あちらなるものが私達にはわからない。其處でやうやく一行の方に挨拶もすんで一たん一行を秋山亭へ案内した。
 次の列車で花蓑氏其他の方々が来られるかもしれぬとの事で、一列車待って、出迎へてみたが更にその様子がなかった。が意外にも羽生から古山秋紅君が雄美老人同伴で来られたのは、實に嬉しかった。
 此處で一行はたけし先生の他一水、青邨、夏山、三七君等の五人に秋紅、雄美の両君とわが吟社の四人を合して都合十一人となった。ことごとく旅装を整へ豫て用意の二臺の自動車に分乗して目的地なる福田村へと向かった。天祐にもさしもの悪い雲行も徐々に変わって来て、かすかながらも日差しが洩れて来た。一行の顔には自ら歓喜の色が見えて来た。私は心ひそかに心から空を仰いで感謝した。」
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昭和5年頃の熊谷駅前:駅弁を販売していた秋山亭と清水屋が駅前に店を出していた。


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3D 盾持武人埴輪 [古墳時代]

熊谷市千代の権現坂埴輪窯跡出土の、盾持武人埴輪。3D化してみました。
盾持武人埴輪:頭部から体部まではほぼ完存しているが、背面が焼き歪み、脚部円筒部分が欠失している。正面観の良く整った端正な顔立ちをしており、まぶた、唇などの膨らみを細かく表現し、朱でX字状の入れ墨を表現している。頭頂部の一文字は、髷(まげ)または兜(かぶと)を表現しているものと推定される。盾には、大陸に祖型を持つと推定される武器が付けられている。
現存器高:55cm、時期:6世紀前半。
https://scaniverse.com/scan/yy4jffvhingryljm?fbclid=IwAR261pQhLMjQRIu_k34PIBO6x-UM_AbzRpntFVnlgN5eO8fBX9bgxHX21o4
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東武熊谷線廃線40年 [その他]

昭和58年5月31日、東武熊谷線は廃線となり、廃線から40年の節目となります。
東武熊谷線は、当初軍需目的で熊谷市と太田市を結ぶ鉄道として昭和17年に着工し、翌年12月5日に熊谷―妻沼間10.1kmが開通しました。しかし、戦況の悪化と終戦により、妻沼―新小泉間は完成しませんでした。
戦後、経済の高度成長に伴い、妻沼―大泉間の貫通が望まれ、昭和36年には貫通促進期成同盟が発足しましたが、東武鉄道、続いて国鉄も建設困難と判断し、貫通は実現しませんでした。
当初「カメ号」の愛称で親しまれた蒸気機関車が田畑の中をのんびり走っていましたが、昭和29年にディーゼルカーとなり、熊谷―妻沼間の重要な交通機関として活躍しました。
昭和53年2月24日、東武鉄道は、大幅な赤字を理由に東武熊谷線廃止の意向を熊谷市と妻沼町に通知しました。そして、存続のための運動も実らず、昭和58年5月31日に廃止となりました。
詳しくは、「熊谷市デジタルミュージアム」の「東武熊谷線」のコンテンツをご覧ください。
013.jpg福川の鉄橋を渡るキハ2000形気動車
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