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『千とせのあき』(1) [紀行]

国学者の小杉榲邨(こすぎすぎむら:1835-1910)は、明治33年11月19日、冑山の根岸武香(1839-1902)の誘いにより、東京から、比企郡西吉見村(現・吉見町)の百穴と、大里郡吉見村冑山(現・熊谷市)の根岸家を訪れており、その際の記録を『千とせのあき』:明治34年刊に残しています。
同行者は、蜂須賀茂韶(1846-1918:はちすかもちあき:侯爵、フランス公使、東京府知事、貴族院議長)、東久世通禧(1834-1912:ひがしくぜみちとみ:伯爵・神奈川県知事・茶人)、津軽承昭(1840-1916:つがるつぐあきら:侯爵、津軽藩主、歌人)、松浦詮(1840-1908:まつうらあきら:伯爵・平戸藩主、茶人)、長岡護美(1842-1906:ながおかもりよし:子爵・外交官)、諏訪忠元(1870-1941:すわただもと:子爵、歌人、茶人)、井上勝(1843-1916:鉄道局長)、鳥居龍蔵(1870-1953:とりいりゅうぞう:人類学者、考古学者)。
上野からの車中、百穴、根岸家で、多くの句を残していますので紹介します。


(前略)
「今この武蔵國に名高き、北吉見の百穴とあざなする幾多の横穴あり、實に一奇跡を極めたれば、これを探りこれを点検しつつ、何くれと評論する人、ますます多く出来るにあはせて、此在地を所有する、根岸武香氏うながし出て、わが庭苑の紅楓をも見がてらになど、色に出てそそのかさるるに、それいとよけむ、其のもみぢも賞しつつ、一日の漫遊を試みむと語らひかはし給ふかたがたは、侯爵蜂須賀正二位、伯爵東久世正二位、伯爵津軽従二位、伯爵松浦従二位、子爵長岡正三位、子爵諏訪正五位、井上従三位の諸君にして、恰もよしことし十一月十九日、霜晴に乗して出立給ふ、(中略)

図らずも前夜鳥居龍蔵の、榲邨がりとふらひ来しからに、よきをりなりとて、龍蔵は榲邨いざなひものす。そもそも此百穴といふものの、一奇観地は、今は埼玉縣比企郡松山町の東に方り西吉見村大字北吉見に在りて、松山城址の麓なり。また根岸氏の本宅は、大里郡吉見村冑山といふ地にあれば、この一奇蹟とは凡一里餘隔たれり。さてこの一奇蹟を探らんには、上野より汽車に乗し、鴻の巣の驛に達し、そこより下車して松山に至るを順路なりとす。されば此漫遊よろづの事は、根岸氏紹介せんと契りおきて、その期日を待しに、この日や風もなく、いとのどけき小春の時を得がほの天気にして、午前六時前までに上野停車場にうち揃ひ、さて六時第一列車に発程し給ふ。根岸の子息伴七氏、御むかひながらにとて、早くもここに出張し、一行とともに時間遅しとうち乗る、津軽、諏訪の両君は、次の発車にものし給ふ定なり。然ありて後、汽車ははしり出ゆくに、車中の御つれづれさましは、例の御口すさびに、今経過しつつゆく驛々の名を題にものしてむと、議決せられつるもいと興あり、さればとて、榲邨まつ戯れに、
「われはけさいつつつくづく音さえし鐘のうへ野を踏つつぞ来し」

といふ、次に長岡君、
「末とほき田はたの稲のほがらかにげにも黄ばめる朝つく日かな」

と詠し給ふを、黄ばめる日といふには、必子細あるならんとて、松浦君しきりに戯れかかり給ふ、またをかし。次に東久世君、ふとことに紙に鉛筆して
「観楓途上、毎驛命名車上戯作、
残月一痕橋畔霜、観楓今日卜晴光、車丁開戸呼王子、便是停車第二場」

井上君、いとはやりかに王子のこころを、
「扇屋によらんとすれど湯気立る車はやくもめぐり過ぎゆく」

次に東久世君、また、
「蔦楓かきはじははそもろもろのにしきの色もあかばねの里」

何となくうち見出して、榲邨、
「あら川の浪の上の霜と見るばかり水の気白し橋の見わたし」

長岡君も同じく、
「川そいの堤へだてて白鷺のゆくと見えしは帆かけなりけり」

次に東久世君。
「けふ更に色こかるらむわらびたく賤が住かの軒のもみぢ葉」

次に蜂須賀君、
「ありあけの月にみやこを立出てうらわのさとに朝日にほへり」
「桑畑も麦生も霜のけぶるなりうらわのさとの冬のあけぼの」

次に井上君、
「ひつち田の稲づか白く霜見えてあさ風さむし大みやのさと」
「過し夏ほたる狩せし大宮のさとわも今は霜がれにけり」
「大宮のさとわさびしく霜がれぬ藤の戸とはん人もなからむ」

次に榲邨、
「走り来てはやも着むと車荷をあけをのうまや人さわぐなり」

次に松浦君、
「木がらしの吹あつめたるもみぢ葉のこほりくむなり桶がはの水」

次に東久世君、
「桑畦の霜気のけぶりたちかすみあさ日にほへり鴻の巣のさと」
など

(中略)
さてこの百穴といふ洞穴を、松山道より遠く望むに、裸山のかたくづれせしが如く見ゆる所に、黒點数十をうちしやうに見えわたれるが、即ちこの横穴なり。実に奇観とも不思議とも、いふべかざるものならん、松浦君は、廿八年の五月にものし給ひ、長岡君もをとつ年ものし給ひし事、上にいふが如く、そのをり榲邨は秋の一夜といふ一冊子をしるしよく心得をれるを、始めて目撃し給ふ諸君は、あはやと驚き見給ふもことわりなり。又一丁許こなたに岩窟ありて、観世音をまつれり、なほ此いはやも百穴同質の凝灰岩なり、さて百穴の前なる一楼屋に入らむとするほど、大澤藤助待むかへ奉り、即ちその一楼の千古観といふにあないし、ここにて一まづやすらひ給ふ、松山警察署詰の警部某々等も訪来ぬ、この楼上にて茶菓の設けありて、さて横穴をゆるやかに観覧し給はんとす。そもそも洞穴をいまに百穴といふは、むかしよりの総称にして、人々出張しつつ所々発掘せしからに、現在に見認るもの二百三十七穴あり、そのむかしは二十ばかりあらはれ居たりしとなり。博士追すがひて其二百三十七発掘せし時、戯れに、
これはこれはとばかりあなの吉見山とうたひしとなむ、榲邨もをとつ年、はじめてこれを見て驚きつつ、良き人のよしと吉見のよこ穴は横見のさとに横山のさとに横山なせり。と戯れたりき、けふ東久世君、
「まつ山のくしき岩むろいつの代に誰がつくりけんくしき岩室」

蜂須賀君、
「めづらしと世々に伝へん松山の松にちぎりてくちぬいはやは」
「うづもれし百のいは室ほり出てむかしのさまを見るぞかしこき」

井上君、
「蓮の実の穴かとばかりみゆるかなあまたつくりし山の石室」

下の写真は大正期に発売された吉見百穴の絵葉書
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