SSブログ

きかは便郵135 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介135回目。今回は「織物品評会」です。
この写真は、大正10年(1921)10月に、市内末広の埼玉県工業試験場と玉井の埼玉県原蚕種製造所の2会場で開催された、全国特産織物品評会を記念して、小坂藤華堂が発行した5枚組絵はがきの1枚です。
この品評会は、第一部絹織物、第二部綿織物、第三部絹綿交織、第四部雑織物及染物の四部門に分かれており、県内外から五千点余りの製品が出品されました。
写真は、「織物品評会開催中熊谷町本町緑門」と記されており、市内本町内に建てられていた木の葉(杉葉?)で装飾された門が「緑門」と呼ばれていたことがわかります。門上部には「祝品評会」、右左の門柱には「熊谷電気館」と記された看板が掲げられています。左の門柱脇には「本塚医院」の看板が見えます。
この品評会の開催時は、ちょうど高城神社の秋季例大祭の期間と重なっており、狭い通り両側の木造家屋の軒先には、注連縄(しめなわ)に紙垂(しで)が下げられています。
奥からは、T型フォードと思われる自動車が正面から写り、門の下には、下駄履き和服姿の子どもが立っています。
養蚕・染物業が盛んであった頃の、蚕都熊谷の様子を伝える写真です。
ymy-304-000-001.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵134 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介134回目。今回は「熊谷郵便局電話分室」です。
この写真は、昭和11年(1935)6月28日に建設された「熊谷郵便局電話分室」の竣工に際し発行された、3枚組絵葉書の1枚です。
絵葉書には、室内の市内交換台と市外交換台の写真が掲載されており、ヘッドフォンをつけた小袖袴姿の女性が、壁のクロスバー交換機に有線をつないでいます。
市外交換台の置かれた部屋は、7人の女性が有線をつなぎ、その様子を2人の女性が見ています。壁際には大きな振り子時計が設置されており、11時35分を指しています。
この熊谷郵便局電話分室は、熊谷市大字熊谷3991-3027-2に建設された鉄筋コンクリート2階建の建物です。現在の国道17号線と市役所通りが交わる交差点の南西に、敷地買収44,500円、建設費103,575円、機械局内設備費113,122円、機械線路設備費74,181円の総工費335,378円で建設されました。
建物内には、防火鎧戸24箇所、消火栓4箇所、ストーブ暖房装置、電気時計21個、電力電灯80個が設置されていました。
熊谷郵便局は、明治5年(1872)に熊谷郵便取扱所として開設され、明治6年(1873)に熊谷郵便役所となり、明治8年(1875)に熊谷郵便局(二等)となり為替取扱を開始し、明治22年(1889)熊谷郵便電信局となりました。
ちなみに、当時の熊谷市の電話加入状況は、単独751回線、共同30回線の規模で、携帯電話の普及が進み固定電話が減少傾向にありますが、平成27年度の固定電話敷設数は34,925回線となっています。
ymy-258-000-001.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵133 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介133回目。今回は「埼玉県立青年学校教員養成所」です。
この写真は、昭和17年(1942)11月に「埼玉県立熊谷農学校創立四十周年埼玉県立青年学校教員養成所創立二十周年記念」として発行された、5枚組絵葉書の1枚です。
絵葉書には、市内大原地内に所在した埼玉県立青年学校教員養成所の木造平屋瓦葺校舎と、明徳寮と名付けられた寄宿舎と吉田所長(熊谷農学校長兼務)が写されています。
この養成所は、大正11年(1922)埼玉県立熊谷農学校に埼玉県実業補修学校教員養成所として併設されました。青年学校の教員となる者を養成するために設置されたもので、修業年限は1年で、2年以上実務経験のある者、師範学校卒業者、教員免許状所持者が対象でした。
昭和7年(1932)修業年限が2年となり、昭和10年(1935)に埼玉県立青年学校教員養成所と改称され、昭和19年(1944)には官立移管され、埼玉青年師範学校となり、修業年限3年で、当初は男子部のみ設置されました。
養成所には、所長、教諭、助教諭、庶務に従事する書記、寄宿舎の業務を行う舎監が配属されていました。
その後、昭和24年(1949)深谷市原郷(深谷商業高校北)の旧陸軍施設跡(旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所跡)に移転し、昭和26年(1951)、学制改革に基づく新制埼玉大学教育学部の母体の一つとなり廃止されました。
埼玉県立青年学校教員養成所.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵132 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介132回目。今回は「片倉製糸会社熊谷製糸所観桜会」です。
この写真は、「片倉製絲會社熊谷製絲所観櫻出發前の光景」と印字されている、大正末から昭和初年にかけて撮影されたものです。
熊谷製糸所は、明治40年(1907)に三木原製糸所を片倉組が買収し、熊谷町で操業を開始しました。総面積34,197㎡の規模で、敷地内には、私立学校の熊谷青年学校が設置され、多くの女学生が働きながら学んでいました。
写真には、「観櫻会」と書かれた幟を持った軍服や背広を着た男性に混じって、振り袖の着物を着た女性が1,000人程写っています。
後の木造2階建ての建物前には、負薪読書の二宮尊徳像が設置されていることから、この建物は熊谷青年学校の校舎と思われます。この他工場敷地内には、寮、社宅、プール、バレーコート、バスケットコート、テニスコート、診療所などの施設が設置されていました。
熊谷青年学校は、働きながら料理・編み物・生け花などを学ぶ学校で、毎年3月に片倉熊谷製糸所の行事として入学式と卒業式が行われていました。
この観桜会も、会社を挙げての行事で、工場で働きながら学んでいた女学生を引率して、桜を見に行く時に撮影した記念写真と思われます。
201805161040_0001.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵131 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介131回目。今回は「年賀状」です。
ymy-284-000-002.jpg
この年賀状は、昭和初年に、熊谷町本町三丁目に所在した萬屋薬店が、馴染み客に出したものです。
文面は「謹賀新年二伸昨年中ハ一方ナラサル御愛顧ヲ蒙リ感銘之至ニ候尚本年モ舊ニ倍シ御高庇之程偏ニ希上候敬具武州熊谷町本町三丁目萬屋薬店中澤半七」と記されています。
広告は、美身白色薬「登録商標ハルナー」で、大正~昭和初年に東京市京橋区築地1-4に所在した合資会社済生堂製薬所が販売し、服用と外用の二種類がありました。
この「ハルナー」は、「吾等の最新最良白色美顔薬として、忽ち全国的に空前の賞讃を博し信用を以て迎えられるハルナー療法は、有名な薬学博士島田耕一先生敷津先生初め五大博士大家が、最新の原理を応用研究した苦心の発明でありますから吾等の体質に適し絶対無害・・・」と広告され、当時の薬局で広く販売されました。
また同社は、大正7年には『白色美身強壮法「一名」ハルナー療法』という本を刊行しています。美白は、当時においても、女性の関心ごとの一つでした。
*島田耕一(1854-1917):明治・大正期の薬学者。明治12年東京大学医学部薬学科を卒業し、内務省勤務。明治36年長崎医学専門学校教授
nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵130 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介130回目。今回は「熊谷區裁判所」です。
201805161103_0001.jpg
この写真は、明治後半から大正期にかけて撮影された「熊谷區裁判所」です。
木立と土塁で囲まれた中に、平屋瓦葺の裁判所の建物があり、正面には木製の門が設置されています。自転車を押す和服姿の男性がちょうど門から出てきている様子が写されています。右側の門柱には「熊谷縣」、左側には「熊谷區裁判所」と書かれた看板が掲げられています。
この裁判所は、明治6年(1873)に、入間・群馬の2県が合併して熊谷県が設置されたことを受け、明治7年(1874)に熊谷寺北側に庁舎を建設し事務を開始しました。その後、明治14年(1881)に新庁舎を落成し移転、明治15年(1882)に熊谷始審裁判所と熊谷治安裁判所に分立しました。明治16年(1883)には、前者は浦和始審裁判所熊谷支庁と改称し、明治23年(1890)には浦和地方裁判所熊谷支部に、後者は熊谷區裁判所と改称しました。その後、昭和22年(1947)に熊谷簡易裁判所となり現在に至っています。
写真下には、「青雲堂発行」と記載されています。この「青雲堂」は、東京神田の今川橋にあった印刷所で、絵葉書を印刷する「葉書部」という専門の部署がありました。

nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵129 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介129回目。今回は「埼玉県立熊谷高等女学校」です。
ymy-069-000-001.jpg
この写真は、熊谷高等女学校での生徒活動の様子を写したもので、右上の写真は「點茶」と印字されています。
先生が床の間の前に座り、和服を着て髪を結った六人の生徒が向かい合い、右側の生徒が、風炉で沸かした茶釜の湯を、茶勺で茶碗に注いでいます。
床の間には花瓶に花が活けられ、大きな掛け軸が二幅掛けられています。
この掛け軸は、中国南宋の軍人で政治家の文天祥(1236-1283)の漢詩で、「孝敬父如天敬母如地汝之子孫亦復如是」意は、父は天のようで、母は大地のように尊いものだ、あなたの子孫もまたその繰り返しなのだから同じように尊ぶべきである。
「忠上事於君下交於友内外一誠終能長久」意は、「君主の為を思って忠勤に励み、友人と誠意を持って付き合うように、皇帝・延臣と庶民とが誠実に生きていければ、国家は長く平和でいられるだろう。」であり、儒教的な内容となっています。
左下の写真は、「作業」と印字されています。モンペを着た20人程の女学生が、鍬を持ち、校舎脇の畑を耕しています。
大正末から昭和初期の、忠・孝を重んじ茶道をたしなみ、勤労作業も行う、当時の女学生の様子を伝える写真です。
nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵128 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介128回目。今回は「熊谷寺」です。
ymy-298-000-002.jpg
駅弁掛紙で紹介した熊谷寺の写真と同じ構図のもので、大正4年(1915)に再建されて間もない熊谷寺本堂を、中村写真館が撮影したものです。
熊谷寺は、建久4年(1193)頃に、熊谷次郎直実(1141-1207)が出家して、館の一郭に庵を結んで僧俗に開放して教えを説いたことに始まり、その後、天正19年(1591)にその庵の跡に、幡随意上人(1542-1615)が寺院を建立したと伝えられている浄土宗寺院です。
本堂正面の参道石畳上には、回向柱が立てられ、柱上部に結びつけられた白い紐が、本堂内部へと伸びています。この紐は、本堂内で五色の糸に変わり、さらに本尊の阿弥陀仏の右手中指から伸びる金糸と繋がっています。この本尊と繋がった回向柱は、阿弥陀仏の命を宿すとされ、回向柱の一面でも触れると、本尊に直接触れるのと同じ功徳が得られると言われています。
この回向柱は卒塔婆の一種で、柱の上部には四箇所に刻みが入っています。これは、「空・風・火・水・地」の五つの要素が、完全な姿で存在する様子を表現したものです。
回向柱の正面には、五つの要素を表す梵字で、キャ:十一面観音菩薩、カ:地蔵菩薩、ラ:羅喉星、バ:薬王菩薩、ア:大日如来と書かれ、その下には「奉修開山蓮生大法師二拾五萬二千二百日供養之寶塔」と書かれています。
この他、回向柱の奥にもう一本上部が布で覆われた新しい回向柱が立てられており、下部には「大慈恩塔」の文字が書かれています。
蓮生法師の没年が建永2年(1207)であることから、252,200日(690年)後は、明治30年(1897)となります。本堂は安政元年(1855)に火災に遭ったものが、明治34年(1901)再建の許可が下り、明治40年(1907)4月10日蓮生法師700年忌を期して上棟し、大正4年(1915)竣工したもので、再建後に改めて法要が行われたことが推測されます。
本堂にはこの上棟式に使われたと思われる「檀徒有志者」寄附による八つ割萬生紋が描かれた幕が下げられており、「明治四十年四月十日」と記されています。
この他、本堂入り口には「戒壇めぐりできます」の貼紙が掲げられています。
再建当時の熊谷寺本堂の様子を伝える貴重な写真です。

nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵127 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介127回目。今回は「日露戦争凱旋門」です。

この写真は、明治38年(1905)の日露戦争勝利を記念して、従軍した人たちを迎えるために熊谷停車場前に建てられた凱旋門です。
ymy-070-000-001.jpg
この凱旋門は、8本の柱で建てられる3つの門を有する構造で、一見石造ですが、恐らく木造で漆喰塗りで仕上げたものと思われます。
中央の門に「祝凱旋」「國威宣揚」と書かれた看板が、左側の門には錨の紋章、右の門には桜の紋章が掲げられており、日本海軍の徽章である「桜に錨」を表現しているものと思われます。左側に旭日旗、右側には日章旗が掲げられています。
凱旋門の下には、正装した男性が並んでおり、左側には、太鼓などの楽器を持った楽隊の姿も見えます。写真右手奥の平屋瓦葺の商店には、「五家寶」の看板が掲げられています。
この他、明治39年10月28日には、日露戦争凱旋軍人慰労会が熊谷小学校で開かれており、うちわ祭の屋台も繰り出し中山道をパレードが練り歩いたほか、11月3日には妻沼歓喜院境内にて凱旋式が開催されるなど、市内各地で記念行事が盛大に行われました。
ちなみに、当時国内各地に作られた凱旋門は、現在では、鹿児島県姶良市(石造:国登録有形文化財)と、静岡県浜松市(レンガ造:国登録有形文化財)の2箇所のみ残されており、福島県いわき市に平成1 9年に復元された木製の凱旋門が残されています。

nice!(0)  コメント(0) 

きかは便郵126 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介126回目。今回は「埼玉県立熊谷高等女学校運動会」です。
201805161036_0001.jpg
201805161003_0001.jpg
この写真は、大正末期から昭和初期頃の埼玉県立熊谷高等女学校の運動会の様子を写したものです。
熊谷高等女学校は、明治44年(1911)県内2番目の県立女学校として開校したもので、昭和23年(1950)に埼玉県立熊谷女子高等学校と改称しています。
日本で運動会が開催されたのは、明治7年(1874)、東京築地にあった東京海軍兵学寮で開催されたのが最初と言われています。
当時は「国威発揚」「富国強兵」「健康増進」を目的とし、運動会とは言わず、競闘遊戯(きそいあそび)と呼ばれていました。
明治末年より運動会として地域・学校において広く普及するようになりました。
写真には、大勢の観客が見守る中、現在の運動会では見ることのない、太刀と薙刀による「太刀薙刀合わせ」、砂の入った袋を担いで走る「砂嚢競争」の様子が写されています。服装は、和服にたすき掛け、袴に長足袋で、動きやすい服装となっています。
この他、熊谷高等女学校では、現在でも行われている「玉入れ」「クラスリレー」「綱引き」「体操」「障害物競争」などの競技も行われていました。
当時の女学校における運動会の様子を伝える貴重な写真です。

nice!(0)  コメント(0)