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きかは便郵145 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介145回目。今回は「熊盛座」です。
この写真は、大正14年5月13日の熊谷大火で焼失する前(大正7年~14年)に撮影されたものです。
熊盛座は、佐谷田の棚沢房吉が、熊谷宿泉町の水田地帯を埋め立てて劇場を設立し、その後、明治27年(1894)に枡席で定員1,300名を収容する写真の劇場を建設しました。間口十二間奥行二十間で、東京歌舞伎座を模した建物です。細い路地に建つ、木造2階建瓦葺きの建物は寺社建築を模しており、入り口正面の2階屋根には唐破風を取り付け、四隅の軒先には風鐸が下げられています。2階の窓の外には、擬宝珠高欄(柱頭部に擬宝珠の付けられた廻縁)が施された浜縁が装飾的に付けられています。
建物前に設置された幟旗には「熊盛座」、「新派連鎖志村演劇精養軒」の文字が見えます。
「新派」とは、明治21年(1888)に始まった日本の演劇の一派で、明治時代に始まった「壮士芝居(明治21年12月3日大阪新町座:角藤定憲旗揚げ)」、「書生芝居(明治24年2月大阪堺卯の日座:川上音二郎旗揚げ)」などをもとに歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達し、「旧派」の歌舞伎に対して「新派」と呼ばれました。
「連鎖」とは、一つの作品を演劇と活動写真で交互に上演・上映したもので、明治40年(1907)代に流行しました。主にアクション場面を上映しながら、陰で台詞を言い、その続きを活動写真と同じ俳優が舞台で演じる形式でした。映画撮影が未熟だった頃に多く作られ、目新しさと俳優の熱演で青年層を中心に人気を集めました。
「精養軒」は、興行主と思われますが、詳細は不明です。
「新派」の「志村演劇」が「連鎖」劇を熊盛座で公演している、映画が普及し始めた頃の、当時の熊谷の様子を伝える貴重な写真です。
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