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三浦無窮 [近世]

1月9日の記事で、小林一茶が、熊谷を訪れた際、三浦無窮の家に泊まったことを紹介しましたが、今回はその三浦無窮について紹介します。
三浦無窮(1737-1816):医家。三浦家は医名を代々玄昌と名乗りました。一茶が寛政3年4月12日に宿泊した玄正(玄昌)は、この三代目無窮です。祖先道円が医をもって壬生城主阿部早侯(三代忍城主豊後守忠秋)に仕え、忍城転封に従って移り、祖父玄昌のとき侯の口添えで熊谷に医を開業しました。医名玄昌、諱は真、字は伯誠。青渓居士とも称し、後年無窮居士と改めました。医術を長谷川玄通、経義を江子園、稲垣維明に学び、儒学者としても高名で、和算家としても知られました。
かつて桐生の素封家で死亡とされて入棺した人を往診し、まだ命脈あると治療を施し、蘇生させたので、家人は驚喜し、その謝礼を尋ねたところ、固く辞して「立派の庭園ゆえ、時々見せてもらえればよい」云々の伝えがあります。
また、荒木某という貧家の主が臨終に際し、子女の将来を憂い苦しみもだえた時、「子女の教育はひきうける」といったので某は安心して冥したと言われています。
文化年間(1804-1818)に著した『汚隆亀鑑』には、熊谷宿の牛頭天王の祭礼には、御制札(札の辻)の西方に、祇園柱という白いサラシがまかれた柱が立てられていたが、今はそれが何のために建てられていたのか知らない者が多いと記されています。
また、書家の野口雪江とも親交があり、雪江の墓誌に「文質具に備わり、知徳両つながら修め、花あり実ありて、功業朽ちざらん」と刻んでいます。
主な著に『医事内言』『隠居放言』『道徳経古義』『無窮詩文集』『みちびき草』『汚隆亀鑑』など。
下の写真は、国立国会図書館デジタルコレクション『汚隆亀鑑』です。
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参考:
『熊谷人物事典』日下部朝一郎:昭和57年:国書刊行会、
『熊谷郷土会誌』第2号:昭和12年:熊谷郷土会、
『新編埼玉県史 資料編14』「汚隆亀鑑」近世5:平成3年:埼玉県
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