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建部綾足:三野日記2 [紀行]

建部綾足の『三野日記』における、熊谷の石上寺以外の記述を紹介します。
明和3年(1766)10月7日に熊谷を訪れた涼袋は、長栄(須賀市左衛門:笑牛)宅に宿泊します。夜になると荒川に近い長栄の家には荒川の川原風が吹いて来て、鴨の鳴く声が聞こえます。中山道に近いため、旅行人が「ああ寒い」と言って通り過ぎました。
8日には、野口雪江の母が最近亡くなったと聞き、追悼の短歌「たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり」と片歌「寒き夜に 肌したひしも おもふべし」を贈りました。この晩には、石川という場所で火事があり、風が強かったため家が7軒焼けたと記しています。
そしてそこに12日程滞在し、鯨井という男の石上寺の話を聞き、18日に本庄から両毛地方を遊歴し、12月3日、右目を病んで村岡に戻り5日間滞在しています。
(前略)
「七日、雨なごりなく晴て、日かげいとけざやかなり。くまがやの堤を行とて、見れば、冬の花どもいとはかなげにさけり。
くまがやの 道のくまびに さく花を 折てぞしぬぶ ひとりし行けば
さて、熊谷なる長栄がりとふに、とどめられてやどる。夜もふけぬれば、川原風のおとづるる方より
鴨ぞ鳴く 霜おくべしと 思ふ夜に
此夜はいもねず。
大路のいとちかきに、旅行人にやあらむ、「あなさむや」などいひすぐ。
行駒の おときこゆなり 夜や明ぬらむ
八日、はゆまのたよりありとききて、けさよみつる歌ども、妹がりへとて人につく。長よし物したまひて、其友なりける中睦が父のかくれすむなるいほりに、いつまでもあれとてすえたまひけり。此庭に山橘のおほく植てはべりければ、
やま人に こひてうえけむ あしびきの 山たちばなを 見るがたのしき
「かねてむつびし雪兄ぬしはいかに」と問ひしに、
「近き比母なくなりたまひてこもり居れり」と聞て、いたみてよみつかはす。
たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり
片歌
寒き夜に 肌したひしも おもふべし
此夜、子ふたつばかりに、石川といふ所より火出て、家七つなむやけぬ。風のはげしかりつるを、
星や飛ぶ 紅葉や散る ともゆる火の」
(中略・石上寺の話・本庄・両毛地方遊歴)
「たどるたどる村岡なる雨皐、かねてちぎり置しかばとふに、をちつ日、おほやけの事につきて江戸に出て、あらず。そが友可了、むかへてやどらす。圭語・岸艪・其鉤などいふ者来たりて、かたらひなぐさめけるほどに、ま薬などたうべて、次の日もとどまる。熊谷なる中睦来る。
五日、おなじ所の長よし、かたまごしの事などものしきこえて、「目の事はかろがろしき事にもあらじ。いづこへもよらで、ただにかへれよ」などきこゆるを、うべうべしくおもひぬれば、「今朝なんまかむづべし」と云。此家のむかひに御鷹かひの来て宿りたるが、をちこち猟しありきなどするを、ほのかに見て、
我にこせ 鷹のとき目は 罪ふかし
人々おくりす。其夜、桶川てふうまやにやどる。
(後略)
下の写真は、大正期の熊谷本町の中山道の様子を写した絵葉書です。
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