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熊谷市指定無形文化財 池上獅子舞 [動画]

昨年8月28日に撮影した熊谷市指定無形文化財「池上獅子舞」の動画を、YouTubeにupしましたのでご覧ください。
市内池上にある古宮(こみや)神社は、平安時代末期の建立と伝えられ、江戸時代に由緒ある古い社(やしろ)という意味から、「古宮」の社号を授けられました。神社に伝わる獅子舞は、室町時代に神主の茂木大膳が、京都石清水八幡宮で目にした獅子舞に感銘を受け、当地に伝えたものといわれています。
 この獅子舞は、三頭の獅子と「めんか」が一組となる勇壮な舞いで、神社の祭り行事として、「悪疫退散」「五穀豊穣」「家内安全」などの祈願のほか、「雨乞い神事」にも舞われてきました。



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ニャオざねと踊る埴輪 [はにわ関連グッズ]

熊谷市のマスコットキャラクター「ニャオざね」と「踊る埴輪」がコラボしたイラストを紹介します。
市民活動推進課が作成したもので、「ニャオざね」が「踊る埴輪」と並んで踊るポーズをとっています。
「ニャオざね」のデザインは市内在住のイラストレーター「ことな」さんによるもので、名前は公募により、ねこの鳴き声に熊谷の武将「熊谷次郎直実」公をプラスした「ニャオざね」になりました。趣味は「市内のみどころ、イベント巡り」、特技は「ねこぱんち」、将来の夢は「ライオンになるのもいいけど市長にもなりたい」という設定になっています。
このデザインは、個人・法人・団体を問わず、どなたでも使用することができます。パンフレットやチラシへの掲載から、グッズの製作に至るまで、幅広い範囲でご使用いただけます。使用にあたっては申請が必要となりますので、詳しくは市民活動推進課(048-524-1348(直通))までお問合せください。
089 (ハニワとコラボ).jpg
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大久保喜一作の肖像画1 [近代]

大久保喜一(1885-1948)による吉田久平の肖像画を紹介します。左下に「K.Okubo」とサインが記されています。
写真の吉田久平は、明治38年10月から大正2年12月まで第5代小原村(現熊谷市)の村長を勤めました。

喜一は、明治18年に児玉郡金屋村(現本庄市)の中林喜三郎の五男として生まれ、14歳の時に小鹿野町の大久保巳之作の養子となります。巳之作は、御正村(現熊谷市)押切の生まれで、大久保家へ養子に入り、県議会議員を勤めるなど小鹿野町の発展に尽くした人物です。喜一は、東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝などの指導を受け、卒業後は図画教師として生涯を美術教育と画業にささげました。熊谷中学と熊谷農学校に奉職していたので、江南地域の学生も多かったようで、父の出生地ゆかりの小原村から依頼され、村長の肖像を描いたものと推測されます。
喜一のサインのある肖像画は、小原村村長の、第2代飯島邦政:明治24年~明治27年)、第3代(小久保壽三:明治27年~明治36年)、第5代(吉田久平:明治38年~大正2年)、第6代(小林瀧松:大正2年~大正6年)までの4枚が残されています。5代26年間の期間ですが、これらの肖像画は、画布やサイン等からほぼ同時期に描かれたものと推測されます。おそらく、昭和17年に熊谷中学校を退職後、昭和23年に亡くなるまでの6年の間に描いたものと推測されます。
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布施田半蔵 [近世]

近世熊谷宿の布施田半蔵(生没年不詳)を紹介します。
半蔵は、熊谷の草分け六人衆(江戸時代の宿役人)の一人である布施田太郎兵衛の子孫で、熊谷宿で宿屋を営みました。享和2年(1802)には蜀山人が宿泊しており(『壬戌紀行』)、文政8年(1825)には脇本陣をつとめました。
文政10年(1827)刊の『諸国道中商人鑑』に熊谷宿の宿屋として「熊谷宿 御宿泊 江戸より右側 京より左側 布施田半蔵」と紹介されています。
また、秩父の『三峯神社日鑑第六巻』:天保12年(1841)~弘化4年(1850)には、「布施田半蔵方御泊り書状到来、大工政吉、御供二被召連候処、寄居上気之躰二而候処、布施田半蔵御泊り之夜、乱心仕、療治等御加へ被遣候へども、平癒無覚束様子二而・・・」、『三峯神社日鑑第七巻』:弘化5年(1851)~安政3年(1856)には、「中山道、熊ヶ宿布施田半蔵登山」「布施田半蔵下ル」、この他『三峯神社日鑑第八巻・九巻』にも記事が記されており、半蔵が度々三峯神社を訪れていることが記されています。
この他、先祖供養のために、長野善光寺本堂前西の宝篋印塔(安政5年(1858)2月)を有志で奉納し、長野六左衛門とともに名が刻まれています。
十返舎一句の『続膝栗毛』に北八が「ハハアここが布施田だな、これも評判のいいやどだ」と話しています。

参考文献
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎 株式会社国書刊行会
『三峯神社日鑑第六巻』2004 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第七巻』2005 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第八巻』2005 三峯神社社務所
『三峯神社日鑑第九巻』2006 三峯神社社務所
諸国道中商人鑑布施田旅館.png『諸国道中商人鑑』
IMG_9972.jpeg長野善光寺本堂前西の宝篋印塔
5AB432CA-9ED1-409A-A2B3-004CA4B6B2E8-1.jpg「布施田半蔵」
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きかは便郵144 [きかは便郵]

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今回紹介する絵葉書は、森田恒友(1881~1933)の年賀状です。
昭和4年に知人に宛てたもので、上部にはひよこの絵が描かれています。
住所は、大正11年8月に新居を建てて転居した、東京市外中野となっています。

森田恒友は、大里郡玉井村(現・熊谷市)に生まれました。15歳で埼玉県第二尋常中学校(現・熊谷高校)に入学しましたが、明治31年、17歳で画家を志して上京、小山正太郎の不同社に学びました。明治35年、東京美術学校(現・東京藝大)西洋画科選科に入学、青木繁を中心に熊谷守一、正宗得三郎らとともに“青木グループ”を結成、明治39年には東京美術学校西洋画科を首席卒業しました。
明治40年には石井柏亭、山本鼎と美術雑誌『方寸』を創刊、第一回文展(現・日展)に「湖畔」が入選するなど、以後、中央画壇で活躍を始めます。
大正3年に渡欧、ロンドン、南仏、イタリア、スペインを旅行し、ポール・セザンヌの影響を大きく受け、帰国後の大正5年には日本美術院洋画部同人となります。大正15年には帝国美術学校(現・武蔵野美術大学、多摩美術大学)の洋画科主任教授となるなど一層の活躍を期待されましたが、昭和8年に52歳で亡くなりました。
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