SSブログ
発掘調査 ブログトップ
- | 次の10件

前中西遺跡2-3 [発掘調査]

本日埼玉県は、熱中症警戒アラートが発表され、熊谷市では最高気温38度予想となりました。
このため、発掘調査は、午前中のみの作業としました。
調査区は、長さ25m、幅5m程の大きさです。1.8m程掘り下げた調査区の壁面は、乾燥による崩落防止のため、ブルーシートをかけて保護しています。
暑さのため、作業はなかなかはかどりませんが、体調第一で進めます。
IMG_7990.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 

前中西遺跡2-2 [発掘調査]

弥生時代中期の方形周溝墓の溝の中から、壺形土器が出土しました。
方形周溝墓とは、弥生時代から古墳時代前期にかけて盛行したお墓の形で、周囲に幅1~2m、深さ50㎝~1m程の溝を方形に巡らしたお墓です。大きさは、1辺が5~20mで、溝が全周するするものと、四隅が途切れるものなどがあります。
今回の調査で見つかっている方形周溝墓は、1辺が5m程の小型のもので、四隅が途切れます。写真の壺型土器は、溝の底からやや浮いた状態で横位で検出されました。無文で、口縁部を部分的に欠く、器高20㎝程の小形の壺です。
IMG_7970.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 

前中西遺跡2-1 [発掘調査]

上之区画整理地内の2地点目の前中西遺跡の発掘調査が始まりました。
4日に重機による表土剥ぎを実施し、本日より調査を開始しました。調査面積約120㎡。
現在遺構確認を行っていますが、弥生時代から古墳時代にかけての方形周溝墓、土壙等が確認されています。
IMG_7946.jpeg
下の写真は、調査区の壁面で、現在から縄文時代までの土層の堆積状況を示しています。約180㎝の深さです。
上から1層目は、砕石層:田んぼの埋め土、2層目:灰褐色土:昭和時代までの田んぼの耕作面、3層目:明黄褐色土:近世の層で、浅間山の天明火山灰を含む、4層目:黒褐色土:平安時代の層、5層目:明黄褐色土:6層目:暗黄褐色土:古墳時代の層、7層目:黒褐色土:古墳時代~弥生時代の層、8層目:黄灰褐色度:9層目:灰褐色粘土層:縄文時代の層?となります。
IMG_7947.jpeg

nice!(0)  コメント(0) 

伊勢山古墳発掘調査(昭和36年) [発掘調査]

昭和36年9月16日~28日に行われた、熊谷市楊井地内の伊勢山古墳と、目白坂瓦窯の様子を記録したものです。
発掘調査は、発掘本部長に若旅進一、発掘担当者に小沢国平、発掘係を夏目米蔵が担当し、作業は、市内の生徒、深谷商業・松山高校生など、延べ200人が協力しました。
伊勢山古墳は、長さ41mの前方後円墳で、凝灰岩の切石石室からは、耳環、直刀、鉄鏃、刀子などの副葬品が出土し、目白坂瓦窯からは、8世紀代の瓦が出土しています。
熊谷市の発掘調査の草創期を記録した貴重な映像です。

nice!(0)  コメント(0) 

池上遺跡現地見学会に行ってきました。 [発掘調査]

 去る3月21日(土曜日)に池上の地で行われた池上遺跡発掘調査現見学会が行われました。当センター主催の事業ですが、一般参加者の目線で報告します。
 発掘地点は国道17号バイパスと125号の南東側に広がっています。現地では誘導員の指示で駐車場へ入り、コロナ対策の消毒・検温・受付を受け、待ち時間はパンフに目を通したり出土遺物を見学できるなどの配慮された案内がなされていました。
image001s.jpg
写真1 発掘調査地区を説明する担当者の方

 予定の時間にとなり、遺跡概要の説明後(写真1)、発掘地点まで数分歩き、水田下に現れた古代遺跡と対面です。発掘地用で確認された知見は多大ですが、特に興味を引いた3件を紹介します。
image003s.jpg
写真2 小溝と方形周溝墓の堀が巡る古墳時代の建物跡

 写真2は古墳時代の竪穴建物跡―これは主として居住用の遺構で住居跡とも呼ばれます―建物跡を巡り小溝が掘られさらに大きな溝(堀)が方形に取り囲んでいます。小溝は排水や除湿用に、方形の堀は建物廃絶後に造られた方形周溝墓の跡のようです。
image005s.jpg
写真3 弥生時代の建物跡から出現した壺形土器 底に穴があけられていた。

 写真3は弥生時代中~後期の建物跡から壺形土器などが出土していました。リアルに完全な形の土器がそこに置かれたようにあるのは感動的です。
image007s.jpg
写真4 堀立柱建物跡 右隅の柱穴には柱材が残っていた。

 写真4は平安時代の建物跡とされ、柱を掘り据えた大きな穴が規則的に並んでおり、倉庫的な建物が2棟分のようですが、まだ増えそうです。文字の書かれた土器が多く発見されたことから役所的な性格も持っていたのでしょう。池上の地からは弥生時代中期から古墳時代前期、奈良・平安時代とメインになる時期の先人たちの足跡が明らかになりつつあるようです。
 なお、当時の見学会資料はこちらです。「池上遺跡 令和4年3月12日(土) 現地見学会」(PDF:3.29MB)
nice!(0)  コメント(0) 

池上遺跡発掘調査について(道の駅整備事業)その7 [発掘調査]

 池上遺跡からは、古墳時代前期の周溝持竪穴建物跡が発見されています。
周溝持竪穴建物とは、周溝持遺構や周溝持建物跡と呼ばれることもあり、建物の周囲に排水溝を掘ったものです。このような遺構は、低湿地遺跡に多く発見され、方形周溝墓の一種と考えられてきましたが、近年の研究で建物跡の可能性が出てきました。今回の池上遺跡では、7棟確認されています。中には、周溝持竪穴建物跡の廃棄後、そのまま方形周溝墓に改築した遺構も確認されました。この方形周溝墓の溝から底部穿孔の壺や形状がわかる土器が出土し、本来方形周溝墓の方台部に供献されていたものと考えられます。
 なお、令和4年3月12日(土)の池上遺跡現地見学会では、これも見学してもらう予定となっています。

3FFB6D37-173F-4851-A83C-3E021FF5EF1F.jpeg
外周の太い溝は方形周溝墓、内側の部分は周溝持竪穴建物跡
AE7DE1D0-8878-45F3-8BDB-31C69AFC6278.jpeg
方形周溝墓の溝から出土した底部穿孔の壺


nice!(0)  コメント(0) 

池上遺跡発掘調査について(道の駅整備事業)その6 [発掘調査]

D1EDB49C-125C-497E-B621-4BBA6A63E09C.jpegE354D0E2-763F-4C5D-92FC-5ADE77451355.jpeg
 現在、発掘調査が進んでいるE区から弥生時代中期の竪穴建物跡1軒と土坑3基が見つかりました。昨年度から道の駅整備事業に伴い調査を行っていますが、弥生時代の竪穴建物跡を検出したのは令和初となりました。
 竪穴建物跡は、まだ調査中のため規模は未確定ですが、6×5m程の楕円形になりそうです。深さは約50㎝と深く、床面の近くから穂摘み具と思われる石器1点や甕形土器などが出土しています。
 第55号土坑は、長さ2.6m、幅1.2m、深さ0.6mの楕円形で、ほぼ完形の甕形土器などの遺物が数点出土しています。かなり大きな穴であるためお墓の可能性も考えられますが、今のところ人骨などは見つかっていません。
 今回の調査によって弥生時代中期の集落域が遺跡の南東域にも広がりをみせることがわかってきました。
 令和4年3月12日(土)に池上遺跡で現地見学会を開催します。
 こちらは、事前予約制となっていますので、予約の方は、熊谷市立江南文化財センター(平日午前10時~16時)で電話のみ受付(048-536-5062)しますので、よろしくお願いします。予約は、令和4年3月10日(木)まで受付中です。

nice!(0)  コメント(0) 

池上遺跡発掘調査について(道の駅整備事業)その5 [発掘調査]

 現在、池上遺跡の発掘調査を実施中です。今年度の調査では、古墳時代の河川跡や集落以外にも弥生時代の遺構も多数確認されています。
 写真は四隅が切れるタイプの方形周溝墓です。北溝の東端から弥生土器壺が検出されており、弥生時代中期の築造と推定されます。この周溝墓から西の行田市小敷田遺跡では、昭和53年~57年の調査時に隣接する3基の方形周溝墓が検出されています。今回検出された周溝墓はその3基から東へ30m程度の位置にあり、近接しています。この周辺は墓域としてのエリアなのかもしれません。
DSCF1138_R.JPG
方形周溝墓(南から)

 一方、次の写真は環濠と推定される遺構です。この環濠は昭和56年~57年の調査時に検出されたものの南に延長部分となります。堆積した覆土の中層から下層を中心に多量の弥生時代中期の池上式土器などが検出しました。この溝跡は、最終的に東西に流れる河川跡に接続していました。
DSC_6022_R.JPG
環濠(北から)
IMG_20220117_140216_306-01.jpg
環濠遺物検出状況
nice!(0)  コメント(0) 

池上遺跡発掘調査について(道の駅整備事業)その3 [発掘調査]

645307CF-A366-44CD-A951-4473D628CAFA.jpeg
A121E664-74C2-40BE-8C56-AF11EC083203.jpeg
 今回は、長らくお知らせしていなかった発掘調査についてお知らせします。令和2年度より継続調査している池上遺跡では、現在、幅30mほどの河川跡が発見されていますが、この川岸から井戸跡が検出されました。この井戸は、河川がある程度埋没した後、掘り込まれており、1辺50㎝ほどの方形の木組枠が残っています。時期は、平安時代と考えられ、井戸としてはやや小さく、周辺には土器や小礫が多数集中して出土しています。さらに墨で文字を書いた土器も多数出土しています。このことから日常的な用途というよりは、水辺の祭祀が行われた可能性が考えられます。また、この北側を過去に調査したときに、平安時代の集落跡が確認されているため、こことの関連を考えながら、慎重に調査したいと考えています。
nice!(1)  コメント(0) 
- | 次の10件 発掘調査 ブログトップ