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大里郡会議員1 [近代]

前回『埼玉県大里郡制誌』を紹介しましたが、主な大里郡会議員を紹介していきます。
今回は、柴田忠明(1852-■)です。
政治家。嘉永6年(1852)三本村(現・熊谷市三本)で、代々名主を務めた柴田家に生れました。明治7年21歳で三本村副戸長に就任、明治21年(1888)4月~明治26年(1893)5月まで、御正新田村、樋春村、押切村、三本村、成沢村が合併してできた御正村の初代村長となりました。明治29年9月、御正村・吉岡村・楊井村代表として初代の大里郡会議員、続いて明治32年(1899)9月、御正村・小原村代表として、大里郡会議員・郡会議長を務め、明治35年(1902)1月、疾病のため職を辞しています。また、大里郡会議員就任中の、明治31年(1898)7月~明治32年(1899)2月まで、第4代の熊谷町長を兼任しています。
明治23年(1890)4月、第3代大里郡長平井光長が埼玉県知事小松原英太郎に報告した御正村監督表によると「戸長ニ職ヲ奉スルコト前後十余年間ナルヲ以て其経験アリ」として適否は適任、勤怠は勤勉との評価を得ています。
柴田忠明.JPG『江南町のあゆみ』江南町史普及版
参考
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『江南町史』通史編下巻 2004年 江南町
『江南町のあゆみ』江南町史普及版 2005年 江南町
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『埼玉県大里郡制誌』 [近代]

熊谷図書館所蔵の大正12年刊『埼玉県大里郡制誌』を紹介します。
「大里郡」は、明治12年(1879)3月17日、郡区町村編制法の埼玉県での施行により、大里、幡羅、榛澤、男衾の4郡を併せて一行政区として発足しました。「郡」は、府県と町村の間に置かれた広域行政体で、郡役所が置かれ、郡長が任命され、議会が開かれました。大里郡役所は、熊谷町の、現在の熊谷寺北側の八木橋立体駐車場から熊谷税務署辺りに設置されました。しかし、大正15年(1926) 7月1日には、郡役所が廃止され、「大里郡」は以降、地域区分名称となりました。
郡役所には、明治18年(1885)に、第一部(庶務、兵事)、第二部(収税、土木)、第三部(勧業、学務、衛生)、第四部(会計)が置かれました。
郡会議員は、主な人物として、明治29年(1896)の選挙で、熊谷町から松本平蔵(実業家:1849-1923)、御正・吉岡・楊井村から柴田忠明(政治家:1852-■)、大麻生・大幡・玉井村から鯨井勘衛(養蚕家勘衛の息子)が、大地主枠で、奈良村の石坂金一郎(政治家・養平の父:1857-1915)、明治32年(16899)の選挙で、妻沼・男沼・太田村から青木茂(政治家)、明治40年(1907)の選挙で、熊谷町から坂田廣三郎(商人:1875-■)、水野丑松(商人・水戸屋五家宝:1852-1914)、大正4年(1914)の選挙で、熊谷町から清水藤左衛門(政治家・清水屋15代:1880-1952)、妻沼・男沼・太田村から小池甲子次郎(政治家:1867-1945)、大正8年(1918)の選挙で斎藤茂八(政治家・俳人:1885-1964)等が就任しています。
郡長は、明治12年初代が鈴木敏行で、第4代に名物郡長中村孫兵衛(1854-1933)が明治23年から明治41年にかけて就任しています。
下の写真は、本書に掲載されている大里郡役所の写真と平面図です。
この本は、熊谷図書館所蔵で、閲覧のみ可となっていますので、興味のある方はご覧ください。
郡役所2.jpg郡役所平面図2.jpg
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権田愛三『実験 麦作栽培改良法』 [近代]

権田愛三が大正12年に著した『実験 麦作栽培改良法』を紹介します。
この本は、権田愛三が自費出版したもので、数千部を全国に無償配布しました。
内容は、愛三が研究した麦作法の紹介で、良い麦を作るには、
・選別した良い種子を適期に広幅で薄く蒔く
・麦の生育初期~育成中期にかけ、5~6回土入れを行う
・良質の完熟たい肥を十分に施し、化学肥料を補充的に施用する
・本葉出た時、土入れの度に麦踏みを行う
等が指摘されています。
また、序には、「(前略)皆さんには文章を御覧になるのでなく真に行い方を御覧になる御つもりで読んでいただきたいのであります。
(中略)見るかげも無き卑著が皆さんに幾分たりとも資すところがありますれば不肖の幸之より甚だしいことはありません。」と記され、
注意として、
①書中不明の箇所は直接著者に宛て御質問をねがいます。著者は何時たりとも確答を與へます。
②百聞は一見に如かずと申す諺のとおり、書中に於て万善を期すつもりでありましても実際真味といふところはとても文字に顕わせるものではありません。故に皆さんに差支いありませんでしたなれば、私の所まで御足労をねがいます。私は何時たりとも実地につきまして説明の労を取ります。
と記されており、愛三の、麦作にかける情熱と人柄が伝わる文章となっています。
この本は、熊谷図書館に所蔵されていますので、閲覧のみ可となっていますが、興味のある方はご覧ください。
麦作栽培改良法3-1.jpg
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井田 諄(しゅん)頌徳碑 [近代]

市内弥藤吾氷川神社境内に建てられている井田 諄頌徳碑を紹介します。
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この碑は、大正12年12月に建てられたもので、篆額は大里郡長秋葉保雄、撰文・書は観清寺住職薫無、石工は妻沼の原田忠吉です。
井田 諄は、安政4年(1857)1月22日、弥藤吾村新田に生まれ、雲巣と号しました。少年時代に奈良村の飯塚頤斎(いさい)に漢学を学び、若くして妻沼小学校の庶務掛から弥藤吾学校教員に抜擢され、明治19年(1886)には、弥藤吾村聠合戸長に就任しています。明治22年(1889)に町村制により、妻沼村弥藤吾村組合の発足と同時に助役となり、明治30年(1897)に村長に就任しています。明治43年(1910)の大洪水の際には、村民の窮乏を憂い、挺身奔走し救済にあたりました。大正2年(1913)、妻沼村との合併の機運が高まると、賛否半にして村議が決まらなかったが、指導力を発揮し、論議を収束させ、推されて初代町長となりました。大正6年(1917)病を得、61歳で逝去しています。
碑には「嗚呼丈夫 採鞅邑衙 郷閭成産 四隣移風」と漢詩が刻まれています。

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新井周吉・河合鋠太郎頌徳碑 [近代]

妻沼歓喜院境内に建てられている、新井周吉・河合鋠太郎頌徳碑を紹介します。
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新井周吉は、入間郡高麗村に生まれ、17歳の時埼玉県立中等師範学校に入り、卒業後は各地の小学校長となり、その後、教育時論記者となり、各地を訪れ、教育を論議しました。
明治21年には、弥藤吾地内に妻沼他8箇村による幡羅高等小学が設置されると初代校長となりました。学校では、忠孝・謹倹による独特の校訓を定め、洗心室を設けて武士道を鼓舞し、女子部を設置し学科と技芸を教え、同窓会を創立して現在に通じる社会教育の実践を試みました。
著書に『教育小説』明治19年:鳴東館、『不思議弁妾』明治21年:盛春堂などあり。

河合鋠太郎は、文久3年川越市に生まれ、埼玉県立中等師範学校に学び、明治17年に渡米し美術を学びました。帰国後は教育者として、坂戸・幡羅・生越の各小学校を歴任し、明治31年に、新井周吉の推挙により、幡羅高等小学校第2代校長に就任しています。

この碑は、昭和4年3月に、子弟により建てられたもので、撰文は石坂養平、書は舞原譔一です。碑の裏面には、子弟1,035名の名前が刻まれており、その中には、綾川武治、井田友平の名も刻まれています。
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碑文には「幡羅高等小学校は規模素より大ならざるも、学績の優良なる地方小学校の模範として名声四隣に籍甚す (中略) 両先生の指導誘掖宜しきの致す所、大我井の新緑愈濃く、利根川の水流淙々として碧きが如く、遺徳は永遠に盡きざるべし」と刻まれています。

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掛川茂一郎頌徳碑 [近代]

市内弥藤吾地内観清寺内に建てられている掛川茂一郎頌徳碑を紹介します。
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掛川茂一郎は、明治元年2月26日に太田村永井太田に生まれ、下奈良圓通寺の東條芹水に就いて漢籍を学びました。その後埼玉県師範学校に進み、明治21年に大里高等小学校に勤務し、明治27年に幡羅高等小学校に移り、新井、河合両校長を助け、幡羅地域の人材育成に努めました。その後幡羅高等小学校の第3代校長となりますが、明治44年の同校廃校に伴い、長井尋常高等小学校長に転じ、民心の開発と地方の改善に力を注ぎました。大正2年には青年会長となりますが、大正13年4月14日57歳で没しています。
書を能くし、晩年は和歌を楽しみました。
この碑は、昭和2年5月に子弟により建てられたもので、撰文は石坂養平、書は埼玉県知事斎藤守圀です。碑の裏面には、子弟810名の名前が刻まれています。
この碑の石材は、砂質泥岩で、産地は宮城県石巻付近で産出され、通称仙台石と呼ばれています。この石材は、層理面に沿って水平に剥離できる特徴から、明治時代に、東日本各地の大型石碑(平均2m超、最大5~6m)に多く用いられました。

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