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敬賢翁寿碑(けいけんおうじゅひ) [近代]

市内村岡の茶臼塚観音堂地内に所在する敬賢翁寿碑を紹介します。
この碑は、明治期の教育者の松葉総右衛門の功績をたたえるために、子弟賛同者によって、明治31年5月に造立されたものです。
松葉氏の祖の彦左衛門は忍城主成田長康(1495-1574)に仕えていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに伴う忍城の開城に伴い、村岡の地に帰農しました。総右衛門は、天保8年(1837)に生まれ、耕雲と号し、明治11年(1878)からは、平戸、大寄、市田の小学校で教鞭をとり、明治18年(1885)からは秩父の高篠小学校長を経て、明治28年(1895)には江波小学校長を務めました。また、安政年間に起こった洪水被害による田の復旧に尽力しました。
碑裏には、「義挙者及賛成者」として、村岡、万吉、平塚新田、屈戸、下恩田、吉所敷、沼黒、高本、津田新田、三本、押切、千代、熊谷町、石原、戸出、奈良村、妻沼村、長井村、西城、江波、善ケ島、西野、上根、上須戸、日向、秦村、成田村、東京市、小川町、玉川村、皆野町、槻川村、瑞穂村等の幹事・生徒370名余りの名前が刻まれています。
碑文の書は、明治書壇の大家金井之恭(かないゆきやす:1833-1907)です。
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妻沼大橋渡り初め [近代]

大正11年(1922)4月に、妻沼大橋が竣工した際の、北岸(群馬県側)からの渡り初めの様子を写したものです。
橋の始まりには日章旗と旭日旗が交差して掲げられています。奥に写る橋脚の高い橋が完成した新橋で、手前の低い橋が旧橋(舟橋)です。
奥の新橋を正装した人々が渡っており、利根川の土手には埋め尽くす人々が待ち望んだ新橋を祝うために集まっています。手前の旧橋上にも、人々が連なって新しい橋を見上げています。
妻沼大橋は、利根川の妻沼(埼玉県)と古戸(群馬県)間に架かる橋で、それまで舟橋であったものを、埼玉県議会と群馬県議会で審議を重ね、大正9年(1920)に起工し、大正11年(1922)4月に竣工しました。全長691m、幅4.5mの木造橋で、南岸38m、北岸65m程は仮橋で、大水の際には仮橋の板等を撤去できる構造となっていました。
手前の橋は舟橋で、明治17年(1884)に完成したもので、総延長220mで、そのうち古戸側74mが板橋、妻沼側146mが舟橋で、幅3.7mでした。渡り賃銭は、手荷物共男女一人一銭でしたが、大正8年(1919)に無賃の橋となりました。
新橋を祝う人々と新旧の橋が写る貴重な写真です。
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大里郡会議員8 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は石坂金一郎(1857-1915)です。
政治家。安政4年(1857)、中奈良の豪農の家に生まれる。石坂養平の父。諱を勤、温斉と号す。
妻沼の両宜塾で松本万年(1815-1880)に学び、さらに独学自習して、詩文、法律、経済に精通した。
明治8年(1875)県内初の自由民権運動結社「七名社」の創設メンバーに18歳の最年少で参加し、植竹緑のペンネームで『東京曙新聞』などに投稿し多数掲載された。
明治10年(1877)20歳で戸長、学区取締、入間郡・大里郡書記、明治15年(1882)から26(1893)年まで県議会議員を務め、その間副議長に就く。その後、明治29年(1896)大地主枠で郡会議員を1期務め、さらに村会議員の公職に就く。
明治42年奈良小学校建築資金、44年に済生会等にそれぞれ1,000円の寄付を行うなど、社会公共のために尽くした。
大正4年3月59歳で没す。

参考文献
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
『熊谷自由民権運動資料1「七名社」の時代』熊谷市史料集7 2021年 熊谷市教育委員会

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大里郡会議員7 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は松本平蔵(1849-1923)です。
実業家。熊谷で安永元年(1772)より糸繭商、穀物商を営む家に生まれる。姉は清水藤左衛門(1880-1952)に嫁いでいる。始め長蔵と称し、幼少の頃、熊谷宿の本町に米田庄三郎が開いた玄染堂塾に入り、素読、習字、算術を学ぶ。
万延元年(1860)11歳で商業見習のため、小鹿野町の常盤屋加藤商店に入り、明治11年(1878)父丈助隠居のため家業を継ぎ、平蔵を襲名し、間もなく中村孫兵衛(1854-1933)の姉やす子と結婚。結果、清水藤左衛門の義理の弟で、中村孫兵衛の義理の兄となる。
明治29年(1896)秩父鉄道株式会社が設立されると、取締役・監査役に就き、中村孫兵衛と共に秩父の柿原万蔵を助け、私財を投じて鉄道開設に尽力した。
明治39年(1906)、日露戦争特需により乱立した製粉会社が供給過剰のため経営不振に陥った熊谷製粉会社を引き受け「松本米穀店製粉部」とする。大正6年(1917)法人化し「松本米穀製粉株式会社」を設立する。昭和5年(1930)名古屋製粉と群馬県新田製粉を合併し、「日東製粉株式会社」に名称変更し、全国三大製粉の一つに発展させた。
明治22年(1889)、第一回熊谷町会議員に選ばれ、大正8年(1919)まで町政の発展に尽力した。
また、私財を投じて鉄道開設に尽力し、荒川砂利採取、熊谷商工会、高崎水力電気と各方面に活躍した。
大正2年(1913)には、円照寺檀徒総代として、大原の土地を寄附し墓地を移転し、各寺院の墓地改葬の端緒を作った。
大正12年(1913)5月17日75歳で没す。
昭和4年(1929)には、松本平蔵翁遺徳顕彰会が、銅像の建設、印刷物の刊行等を目的として発足し、顧問に、中村孫兵衛(1854-1933)、石坂養平(1885-1969)、稲村寛一郎(1850-1933)、斎藤茂八(1885-1964)、委員に清水藤左衛門(1880-1952)他が名を連ねている。
下の写真は、大正3年(1914)~大正7年(1918)の間に製作された絵葉書「熊谷松本製粉所第一工場」。瓦葺の白壁の倉庫と木造二階建ての建物、板塀と冠木門が写っている。門脇の板塀が一部開いており、交互に8段に積まれた袋が台車に積まれている。地面にはレールが左手前にカーブしながら敷かれていることから、この台車はトロッコで、製粉された商品を出荷するためのものと思われる。
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参考文献
『松本平蔵翁のことども』1929 松本平蔵翁遺徳顕彰会
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
『熊谷市史』後編 1980 熊谷市
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大里郡会議員6 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は清水藤左衛門(1880-1952)です。
商人・政治家。明治13年(1880)、中山道熊谷宿の宿屋「清水屋」に生まれる。第15代当主。清水家は、熊谷宿で宿屋と共に、年貢取り立てや土地関連事務を扱う「百石組」を担い、代々藤左衛門を名乗る。
明治33年(1900)3月、旧制熊谷中学第一回生として卒業。
明治40年(1907)6月、日本鉄道が国有化された翌年に、熊谷駅での弁当類の販売許可を得て、熊谷駅前に客待ちの茶店を出し、駅売り弁当や熊谷五家宝の駅売りを行った。
大正4年(1915)9月、熊谷町選出で、大里郡会議員となり1期を務めた。昭和8年(1933)、熊谷市政施行後議員に当選し2期務め、第1代市議会議長に就任した。
昭和11年(1936)に熊谷市第一土地区画整理組合が設立されると、同組合長に就任し市政に貢献した。
また、東京諸新聞販売、埼玉無尽株式会社(後の武州無尽株式会社で、後継銀行は日本相互銀行→太陽銀行→太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行)を興す。昭和27年12月72歳で没す。
下右写真は、明治40年~大正7年の間に発行された「中仙道 熊谷町清水旅館」の絵葉書。中山道に面して、清水旅館の看板が掛けられた、2階建ての建物が写っている。
清水藤左衛門.jpegkumagayajuku.jpg
参考文献
『埼玉県大里郡制誌』1923 埼玉県大里郡編纂
『会員の家業とその沿革』1958 大野靖三
『熊谷市史』後編 1980 熊谷市
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
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大里郡会議員5 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は水野丑松(1852-1914)です。
商人。嘉永6年(1852)群馬県玉村生まれ。明治初年熊谷町石原の菓子業水戸屋に婿入りして三代当主となり、五家宝の祖高橋忠五郎(1809-1880)に風間浅五郎(1855-■)と共に修行する。
水戸屋は、水戸藩出身の藩士水野源助が文政年間熊谷に来て成田用水の水番役人を務める傍ら、中山道に茶店を開き、水戸の殿中を改良した五嘉棒なる棒菓子を製造し、参勤交代の大名や旅人に親しまれたと伝えられている。
明治16年(1883)日本鉄道が熊谷まで鉄道を開通すると、熊谷駅前に茶店を出していた清水藤左衛門(1880-1952)、秋山国次郎に、水戸屋五家宝の駅売りを依頼した。しかし駅売りの当初は、旅客に全く顧みられず売れなかったことから、丑松は、背負えるだけの五家宝を持って、列車の窓から乗客たちに無料で配ったと言われている。
明治43年(1910)には五家宝製造の特許権と、水戸屋の前を流れる成田用水に架かる石橋の養庵橋と富士を五家宝の商標(第14467号)として取得し、熊谷銘菓の隆盛を築いた。また、五家宝の形を長方形にし「松風おこし」と称し販売した。
明治14年(1881)石原村村会議員に当選、明治40年(1907)郡会議員となり郡村政にも尽くした。
明治36年(1903)荒川護岸工事を請負い荒川大橋付近の塚を崩した際、冬眠中の蛇のかたまりを発見し二本榎に移したところ、地主から苦情が出たため、丑松所有の土地に埋め、弁天様を祀った。現在の市内見晴町荒川神社で、当時は「水戸屋の弁天様」と呼ばれていた。明治36年(1903)荒川神社境内に建てられた築堤記念碑に「工事担任水野丑松、水野市三郎」と記されている。大正3年(1914)7月4日62歳で没す。
ymy-127-000-001 (2).jpg水戸屋五家宝掛紙
参考文献
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
『町医者三百年』1979 志村忠夫
『埼玉県立民俗文化センター研究紀要』第14号「五家宝の歴史と製造技術」1998 井上かおり
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大里郡会議員4 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は、中村孫兵衛(1854-1933)です。
政治家。上中条村に代々名主の家に生まれる。幼名隆亮、隆助。
明治8年(1875)県内初の自由民権運動結社「七名社」の創設メンバーになり、演説や警察との交渉にあたる。
明治9年(1876)12月、村内から馬や人物の埴輪が発見されたと聞き、吉見村冑山の根岸武香(1839-1902)に伝え、現在重要文化財に指定されている「短甲武人埴輪」「馬埴輪」の保存に尽力した。
明治10年(1877)、上中条村戸長を務め、明治12年(1879)最初の県会議員に当選。同15年(1882)に副議長、同19年(1886)に秩父郡長、同23年(1890)に南埼玉郡長、ついで大里郡長(1890~1908)を歴任し、名物郡長と呼ばれた。
明治13年(1880)から23年(1890)にかけて栃木県那須郡黒磯町に「埼玉開墾社」を創設し、1,000haの土地を開墾する。同地には今も上埼玉、下埼玉の地名が残り、顕彰碑が建てられている。
明治33年(1900)、上武鉄道(現・秩父鉄道)敷設に際し、松本平蔵(1849-1923)、竹井湛如(1839-1912)らと共に、秩父の柿原万蔵(1860-1919)を助け、重役の一員となり援助した。
明治36年(1903)、備前渠の渠底浚渫工事が明治34年(1901)完成したことを記念して「備前渠改閘碑記の碑」を発企者として、深谷市矢島地内の備前渠のたもとに建てた。この碑の撰文は渋沢栄一、篆額は徳川慶喜、石工は吉川黄雲。
明治41年(1908)、従五位勲五等を賜る。
明治45年(1912)大里郡役所前に銅像が建てられ、その後熊谷寺境内に移設されたが、戦時中の金属回収令により供出され現存しない。
昭和8年(1933)9月23日80歳で没す。
中村孫兵衛.jpg『埼玉県大里郡制誌』1923年
備前渠改こう碑 (1).jpegimage0.jpeg備前渠改閘碑記の碑
参考文献
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
『熊谷自由民権運動資料1「七名社」の時代』熊谷市史料集7 2021年 熊谷市教育委員会
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大里郡会議員3 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は、坂田廣三郎(商人・政治家:1875-■)です。
明治8年(1875)生まれ。
明治33年(1900)、熊谷町の中山道沿いに坂田廣三郎商店を創業する。取扱い商品は、砂糖、石油、小麦粉などで、卸売りを専門とし、秩父地方を主な取引先とした。
明治34年(1901)より熊谷町議員として町制の発展に貢献し、明治40年(1907)に、水戸屋の水野丑松(1852-1914)とともに熊谷町から郡会議員に選ばれ、1期務めている。
下の写真は、明治40年(1907)~大正7年(1918)の間に発行された「中山道熊谷町坂田廣三郎商店」と記された絵葉書。店先には大きな袋が路上にはみ出して積まれており、右端には大八車が停められている。店の前には、和服姿の男性9名と、子供1人が写っており、店の右側には、砂糖、小麦粉の文字が見える。
sakatashouten.jpg坂田廣三郎商店
参考
『熊谷大観』1917年 下田憲一朗
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
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大里郡会議員2 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は、小池甲子次郎(こいけかしじろう:1867-1945)です。
政治家。慶応3年(1867)妻沼村の小池屋に生まれる。若くして家業を継ぎ、製糸場の拡張をはかるとともに、染色の研究に励んだ。明治40年(1907)より10年間学務委員として学校施設の整備充実に尽くした。
明治40年(1907)から43年(1910)まで妻沼村議員、大正2年(1913)から14年(1925)まで妻沼町議員を務め、大正6年(1917)から8年(1919)、昭和2年(1927)から7年(1932)に第6・8代妻沼町長に就任し町行政の振展に貢献するとともに、妻沼町教育会長として、鋭意教育の向上に努めた。
また、妻沼町議員と兼務で、大正4年(1915)妻沼町・男沼町・太田村の選挙区から、大里郡議会議員に当選し、大正8年(1919)まで第9代郡会議長を務めた。
地方自治の振興に尽くした功績が認められ、勲六等に叙せられている。
小池甲子次郎.JPG『埼玉県大里郡制誌』1923年
参考
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『妻沼町誌』1977年 妻沼町役場

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大里郡会議員1 [近代]

前回『埼玉県大里郡制誌』を紹介しましたが、主な大里郡会議員を紹介していきます。
今回は、柴田忠明(1852-■)です。
政治家。嘉永6年(1852)三本村(現・熊谷市三本)で、代々名主を務めた柴田家に生れました。明治7年21歳で三本村副戸長に就任、明治21年(1888)4月~明治26年(1893)5月まで、御正新田村、樋春村、押切村、三本村、成沢村が合併してできた御正村の初代村長となりました。明治29年9月、御正村・吉岡村・楊井村代表として初代の大里郡会議員、続いて明治32年(1899)9月、御正村・小原村代表として、大里郡会議員・郡会議長を務め、明治35年(1902)1月、疾病のため職を辞しています。また、大里郡会議員就任中の、明治31年(1898)7月~明治32年(1899)2月まで、第4代の熊谷町長を兼任しています。
明治23年(1890)4月、第3代大里郡長平井光長が埼玉県知事小松原英太郎に報告した御正村監督表によると「戸長ニ職ヲ奉スルコト前後十余年間ナルヲ以て其経験アリ」として適否は適任、勤怠は勤勉との評価を得ています。
柴田忠明.JPG『江南町のあゆみ』江南町史普及版
参考
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『江南町史』通史編下巻 2004年 江南町
『江南町のあゆみ』江南町史普及版 2005年 江南町
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