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長島勘助 [近代]

市内小八林出身の長島勘助(1864-1934)を紹介します。
勘助は、元治元年(1864)小八林の地主長島茂の子として生まれました。師範学校を卒業し、地元小学校教師となるが、明治28年、熊谷町の鴨田半三郎から座繰り製糸「日進館」を譲受け実業の道に進みます。
明治29年には剣術の他流試合免許を柿沼村の四分一道場(昭文館)より受け、自宅に剣術道場「鉄心館」を開設、その後熊谷町、吹上村に分館を開設しました。
明治31年に創立直後の「熊谷製糸株式会社」経営を引き受け社長となり、ユニークな経営で会社は発展し、10割配当2回等高配当を行い株主を優待しました。大正14年、熊谷大火で工場を焼失しますが、かねてより計画していた吹上分工場を急遽建設するとともに、石原に本社工場を再建しました。昭和5年社長職を娘婿の舞原勘一に譲り引退しています。
また、明治39年から昭和8年まで忍商業銀行吹上出張所所長を務めています。
政治家としては、明治36年から大正13年まで、吉見村会議員、明治36年から44年まで大里郡会議員、大正7年吉見村村長に就任しています。
晩年は、東京まで南画を習いに通い、雁画を好んで描きました。
息子は、㈱埼玉銀行代表取締役頭取、会長、相談役を歴任し、経済界で活躍した長島恭介(1901-1992)。
写真は、昭和初年の石原工場操糸工場の内部。女性が、煮た繭玉から糸を撚り合わせ、中央の糸車に巻き取らせる操糸作業を行っています。
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