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高浜虚子:館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記2 [紀行]

利根川の舟橋を渡った虚子一行は、妻沼の歓喜院を訪れ、本殿の彫刻を見学しました。その後、門前の三浦屋で、「木の芽」を題材にした句会を催しました。

「妻沼」:虚子
「馬車を下りてふらふらする足もとで山門を潜った。馬車の中から遠望した時には色とりどりに木の芽を吹いた新緑の森とばかり眺めていたのであったが、かかる田舎には珍しい大きな建物が目の前に静つていた。本堂を包んでいる彫刻が特に有名なものださうで一疋の猿を足の力爪で引き浚へている鷲の姿勢や、その鷲の方に尻を向け乍ら振り返って手を翳している他の猿の姿勢などは、流石に目を止むるに足るものであった。これは一つの扉の彫刻であったが、其他壁といはず欄間といはず悉く木彫りで成り立つているので、今は大方剥げているけれどもところどころに残っている丹碧の色と相俟つて、此田舎には珍しい贅沢な建物と思はしめた。一つの瓦頭口は、二疋の蛇の交んだ形で出来て居る。もと聖天といふものは男女が抱擁して居る形とか、此瓦頭口にあるやうな蛇の交んだものを本尊として祀っているとかいふやうなことを聞いて居る。或は人間の生殖といふことを極く真面目に考へてそれを祀ったものかもしれない。その聖天様が、此妻沼の森の中で斯く人工を尽した彫刻の壁や欄間に取り囲まれて、堂々たる威容を示して居ることは珍しいことに思はれて、眼を瞠つて見た。普通の参拝者は囲ひの内部へまで立入ることを許されないのださうであるが、我等は其を許されて、巣霞、露耕、晴崖、刀■、如洗の諸君の他に二葉國手も来て案内や説明の労をとってくれた。
 此聖天堂は斎藤実盛の次男の、斎藤六實長といふ人が出家して阿謂法師といったのが、建久四年に鎌倉の免許を得て関八州を勧進して四年間かかって造立したものを、天文二十一年忍の城主成田下総守が再興したものだといふことである。兎に角田舎に珍しい建物といはねばならぬ。参拝を終へて木の芽の吹き満ちた周囲の森の中を歩いた。天を摩する大木に龍の如き藤の大幹の這ひ上っているのを、下から見上げた景色は雄大であった。
 山門前の三浦屋といふ料理店の裏に立札がしてあってそこが俳句会の席場になっていた。木の芽十句を作って互選した。
 作者二十八人。選者二十三人、互選結果、虚子(拾八点)、零余子(拾七点)石鼎、巣霞(各十四点)、月舟(十二点)、一水(拾一点)、瓜鯖、花囚(各拾点)、的浦、鳴潮(各九点)以下略。
高点句
六点 桑の芽に 沈みて低き 藁家かな  虚子
五点 木々の芽に 軒の古簾を 捲きにけり  月舟
四点 行楽の 人の面吹く 木の芽かな  虚子
同  木の芽吹くや 大きく明けし 沼の朝  一水
其他。
沼を翔りし 鳥来てとまる 木の芽哉  零余子
日に光りて 駒鳥わたる 木の芽哉  零余子
大風の 曇天にひろし 枝木の芽  岫雲
かげりては 光る湖畔の 木の芽哉  鳴潮
木々の芽の 明るさにとぶ 蝶々かな  的浦
大木立 頂高く 芽を吹けり  たけし
舟橋の 風強かりし 木の芽かな  瓜鯖
八重の櫻を ゆさぶる風や 木の芽吹く  虚子
欄干の 人に親しき 木の芽かな  虚子
会の終わったのは四時頃であった。」
下の写真は、安政6年(1860)刊『根本山参詣路飛渡里案内』に描かれた「三浦屋」です。
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