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寺内廃寺の遺物整理から―6 「千年の和釘―3」 [整理作業]

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 寺内廃寺から出土した鉄釘は、発掘時点で約600点、総重量35kgありました。復元薬師寺回廊では30tの釘が使われたとされ、寺院建築に多量の釘が使われたことが想像されます。釘の使用にあたっては釘と当たる木材の部分から不朽が始まるので、多湿な日本では鉄地に漆を塗るなどの防腐処置をしています。それでも使用数は少なめにしたほうが建物にとっては良い状態が保たれたと思います。
 寺内廃寺で出土した釘は、完全な例から1寸(約2.7~3.0cm)を基準にして2寸、3寸、4寸、5寸、8寸とほぼ5種に区分できるようです。
 8寸の大型釘は、縦柱と横貫又は梁を留めるために使用された特別な釘で「頭貫」とされる例と考えられます。金堂の柱と梁を留めるには28本以上の頭貫の釘が必要です。
 4寸~5寸の釘は、出土数が最も多く、屋根を支える垂木を留めるために使用されたと考えられます。
 2~3寸の小型釘は、建物での使用も除外できませんが、他の器物での使用が主体ではなかったかとも思います。
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駅弁掛紙17 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介17回目。今回は清水屋の「上等 御弁当」です。
中央には、春の熊谷桜堤と荒川に浮かぶ川船が描かれています。欄外には「御注意 空箱を窓から投げないで腰かけの下にお置き下さい!」「販売品と従業員の営業振りに付き御心付きの点は鉄道係員へ御申告願ひます」と書かれています。下欄には「鉄道構内営業人組合東京下谷中根岸山水社印刷」とあります。
右上には、「調整 (昭和)5.10.21 午前8時」と調整日時のスタンプが押されています。
右下の切符の枠中には、調整元の「熊谷驛 清水」と記されています。
これとまったく同じデザインの掛紙が、以前紹介した駅弁掛紙1で紹介した「秋山亭」でも使用されていました。同じ駅の構内で同デザインの同印刷所で刷られた掛紙の弁当が、2社から発売されていたことになります。
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きかは便郵135 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介135回目。今回は「織物品評会」です。
この写真は、大正10年(1921)10月に、市内末広の埼玉県工業試験場と玉井の埼玉県原蚕種製造所の2会場で開催された、全国特産織物品評会を記念して、小坂藤華堂が発行した5枚組絵はがきの1枚です。
この品評会は、第一部絹織物、第二部綿織物、第三部絹綿交織、第四部雑織物及染物の四部門に分かれており、県内外から五千点余りの製品が出品されました。
写真は、「織物品評会開催中熊谷町本町緑門」と記されており、市内本町内に建てられていた木の葉(杉葉?)で装飾された門が「緑門」と呼ばれていたことがわかります。門上部には「祝品評会」、右左の門柱には「熊谷電気館」と記された看板が掲げられています。左の門柱脇には「本塚医院」の看板が見えます。
この品評会の開催時は、ちょうど高城神社の秋季例大祭の期間と重なっており、狭い通り両側の木造家屋の軒先には、注連縄(しめなわ)に紙垂(しで)が下げられています。
奥からは、T型フォードと思われる自動車が正面から写り、門の下には、下駄履き和服姿の子どもが立っています。
養蚕・染物業が盛んであった頃の、蚕都熊谷の様子を伝える写真です。
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妻沼大橋渡り初め [近代]

大正11年(1922)4月に、妻沼大橋が竣工した際の、北岸(群馬県側)からの渡り初めの様子を写したものです。
橋の始まりには日章旗と旭日旗が交差して掲げられています。奥に写る橋脚の高い橋が完成した新橋で、手前の低い橋が旧橋(舟橋)です。
奥の新橋を正装した人々が渡っており、利根川の土手には埋め尽くす人々が待ち望んだ新橋を祝うために集まっています。手前の旧橋上にも、人々が連なって新しい橋を見上げています。
妻沼大橋は、利根川の妻沼(埼玉県)と古戸(群馬県)間に架かる橋で、それまで舟橋であったものを、埼玉県議会と群馬県議会で審議を重ね、大正9年(1920)に起工し、大正11年(1922)4月に竣工しました。全長691m、幅4.5mの木造橋で、南岸38m、北岸65m程は仮橋で、大水の際には仮橋の板等を撤去できる構造となっていました。
手前の橋は舟橋で、明治17年(1884)に完成したもので、総延長220mで、そのうち古戸側74mが板橋、妻沼側146mが舟橋で、幅3.7mでした。渡り賃銭は、手荷物共男女一人一銭でしたが、大正8年(1919)に無賃の橋となりました。
新橋を祝う人々と新旧の橋が写る貴重な写真です。
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尾鑿山大権現(おざくさんだいごんげん) [近世]

大里地区高本の和田吉野川左岸堤にある尾鑿山大権現碑を紹介します。
碑表には「尾鑿山大権現」、碑裏には「文久三年 亥四月吉日」と刻まれています。高さ47.5㎝、幅35.5㎝の緑泥石片岩製です。
尾鑿山は、栃木県鹿沼市にある山で、山頂に尾鑿山賀蘇山神社(おざくさんがそやまじんじゃ)が建てられています。
この尾鑿山賀蘇山神社は「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国賀蘇山神社従五位下」と記載された社で、五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰されてきました。
江戸時代後期になると「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より多くの参詣者を迎えました。 
この石碑は、高本地区の人が、尾鑿山賀蘇山神社に詣でたことを記念して文久3年(1863)に建てたもので、大里地区の高本で尾鑿山講が行われていたことを示す資料です。
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