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にぎやかに夏祭りひらく(昭和35年) [動画]

昭和35年の、うちわ祭の様子を記録したものです。国道17号線を神輿が練り歩き、屋台が巡行する様子が映されています。

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熊谷雑学研究会 講演会「コロナ禍と熊谷うちわ祭―祭礼行事の意義と展望―」【熊谷市緑化センター研修室(熊谷市宮町二丁目) 2022.06.13撮影】 [普及事業]


 令和4年6月13日、熊谷市緑化センターにおいて講演会「コロナ禍と熊谷うちわ祭―祭礼行事の意義と展望―」を開催しました。
 その様子を収録した動画をYouTubeで配信しています。どうぞご参照ください。
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特別講座「俳人・金子兜太の足跡―俳句の旅と熊谷の自然・郷土をめぐって―」埼玉未来大学ライフデザイン科熊谷学園【妻沼行政センター 2021.01.18撮影】 [普及事業]


 令和3年1月18日、妻沼行政センターにおいて、特別講座「俳人・金子兜太の足跡―俳句の旅と熊谷の自然・郷土をめぐって―」を開催しました。
 その様子を収録した動画をYouTubeで配信しています。どうぞご参照ください。
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新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.7 天昌寺 [熊谷の名工]

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 塩沢の牧之(ぼくし)通りから北西に車で5分ほどのところにある天昌寺は、越後の文人・鈴木牧之が著した『北越雪譜』初編中之巻「寺のなだれ」の舞台にもなっている曹洞宗の古刹です。平安時代中期に、恵心僧都源信により創建され、寛元年間(1243~)には、北条時頼により、越後観音礼所に定められ、十二番霊場として益々観音信仰が広まったといわれています。延徳2年(1490)堂守が没し無住となり、堂宇存続のため雲洞庵から住職を請し復興しました。明暦3年(1657)堂宇が焼失し、現在の本堂は万治2年(1659)に再建されたものです。銅板葺き、入母屋造りで桁行は10間、入口の両脇には仁王像が構えます。
 本堂に入ると正面横並びに10枚の欄間彫刻がはめ込まれています。このうちの7枚を小林源太郎が手掛けました。左手から「子引き獅子」、「唐獅子牡丹」、「盧教仙人」、「大真王夫人と竜」、「祝鶏老翁」、「静玄夫人と麒麟」、「梅福仙人と鳳凰」。
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「子引き獅子」
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「唐獅子牡丹」
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「盧教仙人」
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「大真王夫人と竜」
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「祝鶏老翁」
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「静玄夫人と麒麟」
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「梅福仙人と鳳凰」

 厚さ30㎝のケヤキ板に中国の古事に由来する狩野派の絵を浮き彫りにした作品です。素木の彫刻に所々、赤、黒、緑の彩色が施され、奥行きのある彫りは躍動感に溢れています。「子引き獅子」の手鞠や「祝鶏老翁」の鳥籠には、部材を籠状に彫り抜いて内部まで立体的に表現する「籠彫り」という彫刻技法が施されており、非常に精緻で、鳥籠に至っては籠のなかの鶏の様子まで再現されています。彫刻の裏面には、嘉永7年(1854)の墨書銘が残されており、源太郎54歳の作とされます。源太郎は、この後、榛名神社(群馬県高崎市)の双龍門の彫刻を完工し、再び越後に戻って雲蝶との共作を残しています。源太郎が手掛けた天昌寺本堂の7枚の欄間彫刻は、平成4年に塩沢町の文化財に指定され、現在は南魚沼市指定文化財となっています。
 平成16年に発生した新潟県中越地震で、この地域は震度5強を観測しています。天昌寺では、この地震により、一部の欄間彫刻が落下し、静玄夫人の首が折れる等の破損の被害を受けたといいます。彫刻はその後修復され、源太郎の功績は今日まで引き継がれています。



参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』
・飯盛山天昌寺パンフレット

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駅弁掛紙12 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介12回目。今回は秋山亭の「幕の内弁当」です。
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蓮生法師が、松の木の脇に熊谷宿の石標が建つ中山道を、逆馬で帰るイラストが描かれています。下には「高崎線熊谷駅 秋山亭弁当部 電話二八番 ¥100」と印字されています。
調整印は弁当の角に当たり年号の左端が押されていませんが、(昭和)40.12.13と推測されます。
東行逆馬:建久6年(1195)8月、蓮生は、法然上人の弟子となってから、一度も帰っていない故郷の熊谷を恋しく思うようになりました。そこで、法然上人の許しをえて故郷の熊谷に帰ることにしました。京から馬に乗って熊谷に帰る際、蓮生は「自分は出家し、西方浄土におわします仏様に仕える身となった。その自分が西に尻を向けていいものだろうか」と考えました。そこで蓮生は、身体を反転させて顔を西に向けて乗って熊谷に帰ったと伝えられています。

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野原古墳群「踊る埴輪」モニュメント建立除幕式【八幡神社(熊谷市野原) 2022.04.23撮影】 [普及事業]


 令和4年4月23日、市内野原の八幡神社において、野原古墳群「踊る埴輪」モニュメント建立除幕式を開催しました。
 その様子を収録した動画をYouTubeで配信しています。どうぞご参照ください。
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野原古墳群「踊る埴輪」モニュメント建立に際しての地鎮祭【八幡神社(熊谷市野原) 2022.03.01撮影】 [普及事業]


 令和4年3月1日、市内野原の八幡神社において、野原古墳群「踊る埴輪」モニュメント建立に際しての地鎮祭を行いました。
 その様子を収録した動画をYouTubeで配信しています。どうぞご参照ください。

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新潟の旅-熊谷の名工の足跡を辿る- No.6 青木酒造 [熊谷の名工]

 新潟県南魚沼市塩沢の牧之(ぼくし)通りは、旧塩沢町の中心市街地にあり、かつて三国街道沿いの宿場町として栄えた歴史ある通りです。江戸時代、雪国越後に暮らす人々の生活を記した「北越雪譜」の著者・鈴木牧之(ぼくし)生誕の地であり、その名にちなんで名付けられました。道路改良を機に、雪国の歴史と文化を活かすまちづくりをめざして、雪国特有の雁木の町並みの風情が再現されました。
 この牧之通りのなかほどに享保2年(1717)創業の老舗酒蔵、青木酒造があります。店舗の外には銘酒「鶴齢」の文字が入った看板が掲げられており、その縁を精緻な龍の彫刻が飾ります。この彫刻は、かつて青木家の店舗前に置かれていた小林源太郎作の立て看板の彫刻の一部を再利用したものです。台風で倒れ、破損してしまいましたが、解体して看板の部位だけは残し大切に保管されてきました。
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銘酒「鶴齢」の文字が入った看板装飾

 店内に入ると縦長の額に入った当時の立て看板の見取り図を目にすることができます。見取り図の右端には「けやき立てかん者んの圖(けやき立て看板の図)」と書かれ、看板の中央には『薄荷圓(はっかえん)』の文字があります。江戸時代、この地域では薄荷が多く自生しており、冬の気候を利用した蒸留技術で薄荷を精製し、商品名を『薄荷圓(はっかえん)』として販売していました。青木家もかつて薄荷を商っており、この立て看板は『薄荷圓』をPRするためのものでした。
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立て看板見取り図

 店内には、立て看板の持ち送り部分の彫刻が当時と同じように裏表を合わせたかたちで展示されています。とても大きく重厚感のある彫刻に圧倒されます。またその他の細かな彫刻の一部も店内で大切に保管されていました。
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持ち送り彫刻
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その他の細かな彫刻

 青木酒造では、今でも薄荷油を販売しています。薄荷油は、虫除けや消臭、暑さ対策など様々な用途があるようです。最近では、マスクにつけて薫りを楽しむ人もいるそうです。店員のお姉さんが「よかったらつけてみてください。」と試供品を薦めてくださいました。手の甲に油を垂らしてのばすと、スッと抜けるようなさわやかな香りが心地よく鼻の奥に広がりました。


参考文献
・木原 尚2010 『新装版 越後の名匠 石川雲蝶 足跡と作品を訪ねて』


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きかは便郵130 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介130回目。今回は「熊谷區裁判所」です。
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この写真は、明治後半から大正期にかけて撮影された「熊谷區裁判所」です。
木立と土塁で囲まれた中に、平屋瓦葺の裁判所の建物があり、正面には木製の門が設置されています。自転車を押す和服姿の男性がちょうど門から出てきている様子が写されています。右側の門柱には「熊谷縣」、左側には「熊谷區裁判所」と書かれた看板が掲げられています。
この裁判所は、明治6年(1873)に、入間・群馬の2県が合併して熊谷県が設置されたことを受け、明治7年(1874)に熊谷寺北側に庁舎を建設し事務を開始しました。その後、明治14年(1881)に新庁舎を落成し移転、明治15年(1882)に熊谷始審裁判所と熊谷治安裁判所に分立しました。明治16年(1883)には、前者は浦和始審裁判所熊谷支庁と改称し、明治23年(1890)には浦和地方裁判所熊谷支部に、後者は熊谷區裁判所と改称しました。その後、昭和22年(1947)に熊谷簡易裁判所となり現在に至っています。
写真下には、「青雲堂発行」と記載されています。この「青雲堂」は、東京神田の今川橋にあった印刷所で、絵葉書を印刷する「葉書部」という専門の部署がありました。

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