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木曽義仲生誕の地 その2 [紀行]

 鎌形八幡神社から2キロほどのところに、義仲の父・義賢が館を構えていた大蔵館跡があり、跡地内には大蔵神社があります。
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 久寿2年(1155)、義賢の勢力拡大を恐れた兄の義朝は自身の長男・義平(悪源太義平)に命じ大蔵館を攻撃し、義賢は討たれてしまします(「大蔵館の変」)。このとき、駒王丸(後の木曽義仲)と母・小枝御前は他出していて難を逃れます。悪源太義平の家来であった畠山重能(重忠の父)は、駒王丸を探し出し殺すようにと命じられます。重能は、駒王母子の無事を知るとこれを救出し、長井庄の庄司であった斎藤別当実盛に母子を託しました。実盛は、駒王母子をしばらくかくまっていましたが、追手の探索が迫ってきたため、駒王丸の乳母の夫で信濃国権守であった中原兼遠に二人の身を託しました。駒王丸はすくすくと育ち、木曽冠者義仲と称されるようになります。

 館跡は、周囲を堀と土塁で覆われ、規模は東西220メートル、南北170メートルで、近年の発掘調査により、一辺70メートルほどの小館が存在したことがわかっています。大蔵館跡は県の指定史跡となっています。

 また、大蔵館跡から東に200メートルほどのところに、源義賢の墓とされる五輪塔があります。火災による変色のあとがみられますが、県内に所在する五輪塔の中では最古の部類に属します。
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