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寺内廃寺の遺物整理から―3 飾金具 [整理作業]

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写真1 寺内廃寺の金堂基壇上から出土した、長さ6㎝×幅1㎝の青銅製の板金具
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参考図 「薬師寺発掘調査報告書」奈良国立文化財研究所学報第45冊 1987
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写真2「第60回 正倉院展」奈良国立博物館 図録 2008

 寺内廃寺の金堂基壇上から出土した、長さ6㎝×幅1㎝の青銅製の板金具です(写真1)。小品ながら流麗なつる草や花文が彫り込まれています。
 唐草文風の草花文で、花芯には釘穴があけられ細長く平らな帯状の金具であることから、仏像の収まる厨子や経箱などの貴重品を入れた箱に取り付けられた金具と考えられます。いまなお、正倉院の宝物として、よく似た金具(押縁)を付けた厨子や箱が伝わっています(写真2―黒柿両面厨子など)。また、奈良県薬師寺金堂跡の発掘調査でも類似した金具の発見が報告されています(参考図)。
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寺内廃寺の遺物整理から―2 音で飾る軒先の風鐸 [整理作業]

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図1 寺内廃寺出土風鐸鈕部分2個分 図2 上総国分寺跡出土風鐸復元図
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風鐸のイメージ (復元された平城京朱雀門軒先)

 寺内廃寺の金堂西側は、礎石を覆う瓦礫がよく残ることから火災時に西側に倒壊したと考えています。多量の火災残滓には、建築材の炭化物・焼土化した壁土・瓦・瓦塔片・釘等の金属類を含む多量の遺物が見つかりました。図1の鉄製品は(約5㎝)は分厚い逆U字形をしており、同様な遺物の類例からすると風鐸の鈕(釣手部分)と考えられます。図2は市原市上総国分寺跡から出土した青銅製の風鐸(全高約38㎝)で、上部の逆U字型部分が同形をしています。多くの風鐸に共通する形のようで、島根県来美廃寺、大阪府海会寺跡、奈良県飛鳥寺、奈良県大安寺 兵庫県但馬国分寺跡などでも見つかっています。埼玉県では日高市の高岡廃寺と本庄市の山寺廃寺から破片などが見つかっています。
 風鐸の発する音は障魔を遠ざけるとされ、清浄を保つ機能がありました。寺内廃寺ではどのような音色を奏でていたのでしようか。
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熊谷図書館ミニ企画展「書家・野口白汀展」 [展示]

熊谷市立熊谷図書館3階郷土資料展示室では、下記のとおりミニ企画展「書家・野口白汀展」を開催しています。
日本書道界の重鎮として活躍した、書家・野口白汀の作品を当館所蔵品より展示しています。文字を芸術に高めようと練磨と決意で美に立ち向かった書家の作品をご堪能いただければ幸いです。

期 間:令和5年3月7日(火)から 令和5年6月4日(日)まで
時 間:午前9時~午後5時
場 所:熊谷市立熊谷図書館3階 郷土資料展示室
     熊谷市桜木町2丁目33番地2
入場料: 入場料無料
休館日:毎週月曜日(祝日は除く)、3/22、4/7、5/12、6/2
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駅弁掛紙16 [その他]

熊谷駅で売られていた駅弁の掛紙の紹介16回目。今回は大盛商店の「幕の内弁当」です。
青いのれんのイラストに「幕の内弁当 大盛商店特製」と書かれています。
左下には、「当駅より名所案内 熊谷寺直実墓址 バス五分 桜の名所熊谷堤 徒歩一〇分 国立公園奥秩父 電車八〇分 長瀞自然科学博物館 電車五〇分 松山城址 バス 四〇分 吉見百穴 バス 五〇分 足袋の行田市 バス二〇分電車一〇分」「¥150」「御願い空箱は車窓外に投げないで腰掛の下へお置き下さい」と、右下には、ヒョウタンのイラストの中に「熊谷駅 合責会社 大盛商店 TEL九九九」と記されています。
調整印は薄く判読が難しいですが、(昭和)39.8.11と思われます。
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きかは便郵134 [きかは便郵]

昔の熊谷地域の絵葉書紹介134回目。今回は「熊谷郵便局電話分室」です。
この写真は、昭和11年(1935)6月28日に建設された「熊谷郵便局電話分室」の竣工に際し発行された、3枚組絵葉書の1枚です。
絵葉書には、室内の市内交換台と市外交換台の写真が掲載されており、ヘッドフォンをつけた小袖袴姿の女性が、壁のクロスバー交換機に有線をつないでいます。
市外交換台の置かれた部屋は、7人の女性が有線をつなぎ、その様子を2人の女性が見ています。壁際には大きな振り子時計が設置されており、11時35分を指しています。
この熊谷郵便局電話分室は、熊谷市大字熊谷3991-3027-2に建設された鉄筋コンクリート2階建の建物です。現在の国道17号線と市役所通りが交わる交差点の南西に、敷地買収44,500円、建設費103,575円、機械局内設備費113,122円、機械線路設備費74,181円の総工費335,378円で建設されました。
建物内には、防火鎧戸24箇所、消火栓4箇所、ストーブ暖房装置、電気時計21個、電力電灯80個が設置されていました。
熊谷郵便局は、明治5年(1872)に熊谷郵便取扱所として開設され、明治6年(1873)に熊谷郵便役所となり、明治8年(1875)に熊谷郵便局(二等)となり為替取扱を開始し、明治22年(1889)熊谷郵便電信局となりました。
ちなみに、当時の熊谷市の電話加入状況は、単独751回線、共同30回線の規模で、携帯電話の普及が進み固定電話が減少傾向にありますが、平成27年度の固定電話敷設数は34,925回線となっています。
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寺内廃寺の遺物整理から―1 花を飾る器 [整理作業]

 寺内廃寺にかかわる出土遺物整理の状況のその後をいくつか取り上げます。
今回初めて紹介する報告もありますので、ぜひご覧ください。
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寺内廃寺出土の多嘴瓶   奈良二彩の多嘴瓶
東京国立博物館蔵

「多口瓶」又は「多嘴瓶」とも呼ぶ壺形陶器は、一個の長頸壺の肩に複数個の口頸部を取り付けたもので、その数は4~5個の例が多く、花を生ける花器で、寺に特有の器具とされ、窯跡などの生産跡以外では仏堂跡から発見されます。
 官大寺と呼ばれる国家直轄の寺院では、緑釉陶器や三彩陶器で作られた高価な花器も出土していますが、地方の寺院では美濃で作られた灰釉陶器や地元産の須恵器などが多く使われたようです。
 寺内廃寺金堂から出土した多嘴瓶は灰釉陶器が使用されており、細片から復元すると図や写真のような姿となります。現在でも仏前に花を供えますが、寺内廃寺の場合、仏像の破片から推定される如来と観音に手向けられたと想定しています。
 参考に、奈良市「薬師寺」は奈良二彩、宇治市大鳳寺跡は灰釉陶器、日高市高岡廃寺は須恵器の多嘴瓶の出土が知られます。
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大里郡会議員8 [近代]

主な大里郡会議員の紹介。今回は石坂金一郎(1857-1915)です。
政治家。安政4年(1857)、中奈良の豪農の家に生まれる。石坂養平の父。諱を勤、温斉と号す。
妻沼の両宜塾で松本万年(1815-1880)に学び、さらに独学自習して、詩文、法律、経済に精通した。
明治8年(1875)県内初の自由民権運動結社「七名社」の創設メンバーに18歳の最年少で参加し、植竹緑のペンネームで『東京曙新聞』などに投稿し多数掲載された。
明治10年(1877)20歳で戸長、学区取締、入間郡・大里郡書記、明治15年(1882)から26(1893)年まで県議会議員を務め、その間副議長に就く。その後、明治29年(1896)大地主枠で郡会議員を1期務め、さらに村会議員の公職に就く。
明治42年奈良小学校建築資金、44年に済生会等にそれぞれ1,000円の寄付を行うなど、社会公共のために尽くした。
大正4年3月59歳で没す。

参考文献
『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
『熊谷自由民権運動資料1「七名社」の時代』熊谷市史料集7 2021年 熊谷市教育委員会

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